2011年10月3日月曜日

建物探訪(Ⅱ)二葉館

今回の街中散歩は、東区白壁界隈の「文化のみち」と称されるエリアです。
「文化のみち」とは、明治から昭和の初めにかけて、この地方で活躍した実業家達の屋敷などが建ち並ぶ歴史的建物保存地域です。
今日は、公開されている建物の中から、「二葉館」を紹介します。
二葉館


「二葉館」が建てられたのは大正中期、東二葉町(現在の白壁三丁目)に福沢桃介と川上貞奴の居宅として建てられました。
その後、昭和なって、桃介も貞奴も東京に居を移し、所有者の変遷はありましたが、平成12年から移築復元工事が始められ、平成17年に現在の橦木町に完成し、旧川上貞奴邸「二葉館」として公開されました。

1階ホールのステンドグラス







外観からは、まったくの洋館に見えるこの建物は「洋館単独和室吸収型住宅」というのだそうで、明治のころに出現した「和洋館並列型住居」から移行していく中で、最新のデザインを取り入れた邸宅は、とても斬新で、当時の人々もさぞや驚いたことでしょう。
旧食堂のステンドグラス


赤い瓦葺き屋根が印象的な建物は、その豪華さから「二葉御殿」と呼ばれ、財界人のサロン的役割をはたしてきたそうです。
 
まだ、一般庶民には車など縁のない時代に、車寄せのある玄関ですよ。
まさしく「御殿」の名に恥じない風格です。

ホールに繋がる円形の談話室




ステンドグラスがはめ込まれた大きな窓と寄木張りの豪華な床が印象的な洋館1階の大広間は、サロンと呼ぶにふさわしく優雅で華麗そのものです。
時代の担い手となった政財界の紳士達が集い、情報交換などをした場所でしょうか。
女主人として、来客者をもてなす貞奴の姿が目に浮かびます。

階段


大広間から2階に続く吹き抜けの階段は、少し螺旋になっていて、これがまた優雅さを醸し出しまています。
この階段から降りてくる貞奴の姿は、さぞや気品に満ちていたことでしょう。
2階旧寝室






洋館の2階は、プライベート空間だったようで、陽光差し込む明るい書斎や寝室があり、今は展示室になっていますが、洗面所や浴室、化粧室もあったそうです。
今でこそ、2階に水回りがあってもめずらしくありませんが、当時、2階に水を引くことは大変な技術だったんじゃないかと思います。

1階和室

1階和室部分は、おもに貞奴の居住空間であったらしく、台所(今は集会室)のとなりの茶の間には、貞奴専用の小さな書斎も付いていて、家事を取り仕切りながら仕事をこなす、忙しい貞奴の動線を考えた造りになっていることに感心しました。
そのほかの和室に関しても、思いのほか簡素で実用的な造りになっていています。
それから推察しても、貞奴という女性が実務的な女性であったであろうことが窺えます。



川上貞奴といえば「日本の女優第1号」として、名を馳せた女性です。
言うなれば、日本のセレブ第一号ですよね。
もともとは売れっ子芸者でありましたが、興行師の川上音二郎と結婚し女優になりました。
その才能と美貌から一座の興業は人気を博し、ついには海外公演の舞台に立ち、パリ万博の公演では「マダム貞奴」と呼ばれ、フランス政府から勲章を貰う程の有名女優になりました。
川上音二郎の死後、女優を引退し、名古屋大曽根に輸出向け最上級の絹を生産販売する「川上絹布株式会社」を設立し、実業家となったそうです。




福沢桃介は、幼少から神童と呼ばれる秀才だったそうで、慶応義塾在学中にその優秀さを認められ、福沢諭吉の次女ふさの婿となる為、福沢家の養子となった人です。
日露戦争をきっかけに株で大成功し、財をなし、やがて大同電力株式会社を設立、木曽川水系の電力開発に乗り出し、「電力王」と呼ばれる実力者になりました。




桃介と貞奴は、貞奴がまだ芸者だった頃からの知り合いだったそうです。
私的には、二人の関係を、ひとくちに愛人関係と括ってしまうのではなく、同志、あるいは事業パートナーと見るべきだと思います。
この「二葉館」を舞台に、実業家として対等な立場でお互いの事業発展のため協力し、近代産業の発展を担っていったのではないでしょうか。

現在「二葉館」は、市民の交流の場所、「文化のみち」の拠点施設として多くの人に利用されています。
文化や歴史は、人々の交流によって築きあげられていくものだと思います。
それは、まさしく桃介と貞奴が、交流サロンとして建てた創建時の思いが受け繋がれていることではないでしょうか。

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