2012年9月25日火曜日

火の粉飛び散る幻想の一夜    -知立 秋葉まつり-


こんにちは。
今年の夏は長かったけれど、お彼岸を迎えて急に朝夕の肌寒さが身に沁みる季節になりましたね。
そんな彼岸の日曜日の朝、カーテンを開けて私は少々ガッカリです。
薄暗い空、シトシトそぼ降る雨。
「あぁ、雨なんだぁ~」
この日は、愉しみにしていた「知立秋葉まつり」を見にいく予定だったのです。
仕方ないね(T_T)
怠け者の習性で、ついもう一度布団に潜り込もうとしたのですが、そんなことではいけません(ー_ー)!!

お彼岸なんですから、やらなきゃいけないことが!


気をとりなおして、お仏壇にお供えする陰膳を作り始めました。
前日に買っておいた零余子(むかご)の御飯を炊いて、季節のお野菜で なんとか三品の精進料理を作り、お仏壇に手を合わせ、「来月は会いに行くからね」と父や母にお墓参りに行けないことの罪滅ぼし。
来月は母の13回忌、浜松にあるお墓にはなかなか行けないのが実情なんです(-_-;)
そんなこんなで、日常の雑事を終えたのが午後2時。



国指定重要文化財の多宝塔

空はすっかり晴れ上がり、気持ちのいい秋晴れとなっていました。
一旦は諦めた「知立秋葉まつり」も、夕方に行われる「手筒花火」には間に合いそうです。
そうとなったら急転直下、カメラ担いで出動です!
何事もダラダラの私ですが、祭りとなったら行動は素早いのです(^O^)/
さっそく車を駈って知立へGO!

「秋葉まつり」の行われる知立神社は、5月の「山車祭り」にも訪れた場所ですから、迷うことはありません。
なんなく裏道を走り抜け1時間で到着。
車を駐車場に入れ、カメラを担いで歩き出すと威勢のよい若衆の掛け声が聞こえてきました。



知立名物「大あんまき」

見れば、長持ちのようなものを担いだ若衆が練り歩いています。
さっそくカメラを取り出したのですが間に合わず・・・
その場所が休憩所だったようで、そこであえなく散会(>_<)

まぁ、歩いていれば そのうちどこかでまた出会えるでしょう、などと考えながら歩いているうちに知立神社に到着しました。
到着した知立神社の境内には綱が張られ、その周りにはあちこちに三脚が立てっいます。
もはやカメラマンの場所取り合戦が始まっていたのです。


三脚のまわりには誰もいないのに・・・そんなのアリなのぉ~
いつも三脚を持ち歩かない私としては、ここが思案のしどころです。
え~、まだ若衆の練り歩きも撮りたいのに・・・
ここで待機して「手筒花火」一本に絞るか、境内を出て「練り歩き」を捉えるか、散々悩みましたが ここは「手筒花火」一本に懸けることにして、人がいないことをいいことに三脚の乱立を掻き分け、隙間を見つけ出しポジション確保(*^^)v
だって、三脚だけで場所取りしてる人だってズルいでしょ。
でも、後から来た私の方がズルいのかな・・・アハハ(~_~;)
そこは愛嬌で誤魔化すのも得意技なんで、許してねぇ~と。

さて、注目の「手筒花火」を待つ間に、いつもの簡単な解説といきましょう。
「秋葉まつり」といえば、当然のごとく “火祭り” を連想される方も多いでしょう。
「秋葉社」といえば、“火伏” の神様をお祀りしている訳ですからね。
ここ「知立神社」にも、あまり大きくはありませんが、宝暦4年(1745年)に遠州の秋葉神社から勧請された「秋葉社」が末社としてあります。

「秋葉神社」の名を持つ神社は、日本各地に約400社あるといわれていますが、ここ「知立神社」のように末社として祀られている神社などを含めると3,000社を超えるといわれています。
その全部で “火祭り” 行事が行われているのかどうかは分かりませんが、それぞれの地方に独特の “火祭り” 行事が伝統として残っていますよね。

今回の「手筒花火」も 、伝統の “火祭り” 行事といえるでしょう。
「手筒花火」の起源は、鉄砲伝来により火薬の製造が盛んになった頃からだといわれています。



江戸時代の始めに徳川家康が江戸城内で花火の見物をしたとの記録が始まりですから、その頃の花火が、おそらく「手筒花火」だったのであろうと思われます。
そういった事情で、徳川の御膝元である三河地方や遠州地方では、「手筒花火」が盛んになっていったのですね。




それがこの知立では、いつしか「秋葉社」の “火祭り” となり、奉納行事としての「手筒花火」に結びついていったようです。
この時期、私の住む名古屋周辺では各地で「手筒花火」を見ることができます。
そのすべてが、“祭り” の奉納行事ではありませんが、受け継がれていくべき「伝統の技」であることは間違いありません。

「知立神社」の「手筒花火」に関しての歴史は、そんなに古いものではありません。
明治の後期に始まったようですが、華やかな尺玉の流行によって一時期は廃れた状態になっていたようです。
いつの世にも流行には、逆らえませんよね。

規模としても小さい部類で、豊橋・蒲郡、あるいは湖西市・浜松市で行われる「手筒花火」に比べればこじんまりとした小さい「手筒」だそうですが、はじめて見る私にはド迫力で迫ってきましたよ。




そして.「手筒花火」の最大の特徴は、花火職人によって作られ、花火師によって打ち上げられる尺玉や仕掛け花火と違って、すべて自分たちの手によって行われるということです。
山に入り竹を切り、火薬を調合して詰め、縄を巻きつけ完成させる一切の作業を自分たちだけで行うのです。



ここに、私の愛して止まない「伝統と心意気」があるように思えるのです!

では、話はまた現場に戻しましょう。
5時を過ぎる頃、境内に「5時半から玉箱(長持ち)の宮入りが始まります」とのアナウスが響くとカメラマンや見物客がぞくぞくと集まってきました。
戻ってきた三脚のオジサン達の「なんだコイツ」という視線をサラッとかわして、ちゃっかりポジション取りをしていた私はワクワクドキドキです。
しかし、いつものごとく待てど暮らせど お目当てはやって来ないのです。
やって来たのは、辺りがすっかり暗くなった6時過ぎ・・・。
三脚を持って来ていない私には宮入り写真は、かなりの厳しさ(>_<)


三脚が必要なのは分かっちゃいるのですが、大勢の人がいるところに三脚を立てるのは、どうしても自分のポリシーに反するのです。
威勢よく、玉箱(長持ち)を担ぎながら練り歩く若衆を望遠で狙ったものの、結果は見事惨敗・・・(-_-;)
まぁ、いいさ、花火はしっかり撮ってやる!
なんてほざいてみたものの、実は花火写真を撮ったのは、いままでわずか2回のみ。
しかも、ほとんど失敗。
それでも伝えたい一心のトライ根性を褒めてくだされ。




市内6町(宝町・山町・山屋敷町・中新町・本町・西町)の宮入りが終わると、いよいよ「手筒花火」の奉納となります。
やがて、周囲の明かりは消され、 綱で仕切られた境内中央は暗闇に・・・。
入場口に控えた若衆の横顔は真剣そのもの。
掛け声も威勢よく中央に進み出た若衆は、その両手に手筒を握り円陣を組みます。
点火されると同時に火の粉が飛び散り、その火の粉はやがて7mにも及びます。
「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声の響く中、火の粉を浴びた若衆の姿が神々しい光に包まれます。
なんと美しいのだろう!
声も出ないくらいの感動です!
私の想像を超えたド迫力(@_@;)
火の粉を浴びる男の姿は勇壮と表現するより、むしろ悲壮と言っていいくらい熱いのだろうなぁ~
もう、見惚れてしまって口をアングリ状態の私。


しかし、そんなこともしてられないのが私の使命。
はたして撮れているのかどうかもわからないけど、夢中でシャッターを切るばかり。
もう、こうなったら「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式でいくしかないのです。
やたら、露出を変えての乱れ撮り。
暗闇の中では、カメラ操作すら難しいのであります。
花火のシャッターチャンスは短く、モタモタしてる暇もないのです。
となりのオジサンのカメラから連写の音が聞こえてくるけど、自信のない私には連写なんてとても無理だし・・・ えーい、儘よ。
そんなこんなの緊張の2時間、精も根も尽き果てました(-_-;)


それでも、腹ペコでヨレヨレの帰り道、見つけたラーメン屋でひとりラーメンをすすりながら、写真はダメでも今日の感動だけは絶対伝えようと強く決心したのでした。
やっとの思いで帰り着き、疲れていたけどその日の成果を見てみると・・・。
ヤッタァ!自分でも意外なほど上手く撮れてるじゃん(@_@;)
これも朝早く起きて、お仏壇に手を合わせたご利益かな?なんてね(^o^)



夏の夜空を彩る尺玉や大仕掛けのナイヤガラも素敵です。
「玉や!」「鍵や!」の掛け声も情緒を誘いますよね。
しかし、歴史と伝統の「手筒花火」も壮観ですよ。
「手筒花火」 の主役は、花火そのものではなく、火の粉を浴びて立ち続ける日本男児!

草食男子とか言われている昨今ですが、日本の男は まだまだ捨てたものじゃありませんぞ!
イヨッ、日本男児は、カッコいいぜ!

みなさんも機会があったら、ぜひ一度見に行ってくださいね。
今日も最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
では、また次のお祭りでお会いしましょう(^o^)/




2012年9月11日火曜日

豊穣を寿ぐ伝統の踊り -寒水の掛踊 郡上市明宝寒水-


こんにちは。
私の住む中部地方では、まだまだ30℃を超える暑い日が続いておりますが、朝夕は涼風を感じられる9月となりましたね。
いよいよ秋祭りの季節到来です。
今年はどんな祭りに出会えるかな~っと、日々検索の私ですが、見てきたからと言って全部書いているわけではありませんよ。





中には、はるばる出かけて行っても書きたくなるような感想も持てないような残念な祭りもあるので、慎重にリサーチしなくてはいけません(ー_ー)b


さて、そんな中でも伝統芸能ウォッチャーの私としては、どうしても見逃せない伝統行事を追い求めて、今回もいつものように車をかっ飛ばし行ってきましたよ。
本日ご紹介するのは、「寒水の掛踊(かんすいのかけおどり)」という郷土の伝統行事です。
この伝統行事が行われる場所は、岐阜県郡上市明宝寒水という地域で、郡上市街から40分ほど山に入った静かな山村です。



2004年に郡上市に統合されましたが、以前は郡上郡明宝村寒水と呼ばれていた小さな集落です。
郡上といえば、何といっても「郡上おどり」が有名ですが、ここで行われる「寒水の掛踊」とは、まったく別物の伝統行事で地元の鎮守“寒水白山神社”に奉納される伝統祭祀です。
あえて “祭り” とは呼びませんが、“祭り” に近い行事といってよいでしょう。
その歴史は古く、岐阜県の重要無形民俗文化財に指定されています。
この祭事も、やはりはっきりとした起源については不明なのですが、享保17年(1732年)の紙幟が現存していることや、安永元年(1772年)の奉行所の記録に“祭行列”と記されていることから、少なくとも240年以上の歴史があると思われます。


まあ、歴史はさておき、とにかく愉快なこの祭事の実況中継といきましょう。
私がこの日、車をかっ飛ばし辿り着いた時刻は12時を少し回った頃、少し出遅れたので祭事はもう始まっていました。
山道沿いにある一軒の家の庭先で、なんとも面白い扮装の一団の奉納舞が行われていました。

一目見た瞬間から、私はゾクゾクするほど嬉しくなって、思わず「ヨッシャー!」と叫びたいくらいほど興奮しちゃいましたよ。


しかし、いつものごとく大勢のカメラマンに占拠された場所にはつけいる隙もなく、カメラマンの隙間から眺めることに終始しました。
すると、またまた地元のおばあちゃんと仲良しになれましたよ。
「どこから、来たかね?」
「はい、名古屋から」
「そりゃご苦労なこったね、ひとりで来なさったか?」

「はい」
「写真を撮るのかね?」
「はい」
「ここでは人が多くて無理だけんが、神社まで行列していくで道で待っとりゃええよ」

「ありがとうございます」
ありがたい情報をいただいた私と、その会話に聞き耳を立てていた私同様  “つまはじき” になっていたカメラマン数人が移動を始めると、なんだか大勢のカメラマンもゾロゾロ動き始めました。
歩いていると、毎年写真を撮りに来るという脚立持参のカメラおじさんとも仲よくなり、いろいろ教えていただくこともできました。

そんなこんなで30分程待っていると、山道を下ってくる行列が見え始めました。
その行列の、まるでタイムトリップしたような なんとも懐かしい光景とお囃子が心に響きます。


たわわに実る田んぼの稲穂が黄金に輝き、コスモスが風に揺れ、これぞ里山だ!日本の原風景だ!と夢見心地の私の横で、「ガードレールさえなきゃねぇ」と誰かがポツリ・・・。

そりゃそうだけど仕方ないよね(~_~;)

では、この辺で「寒水の掛踊」の解説をかいつまんでお話しましょう。
「寒水の掛踊」 は、先ほど地元の “白山神社” の奉納祭祀である紹介しましたが、この “白山神社” には、宮司がいません。
したがって、やはり祭祀というより、祭事、つまり祭りという解釈でよいのでしょう。
宮守りは1年交代で集落の人たちの中から選ばれるそうです。

地元住民がしっかり守ってきた神社なんですね。


この祭事においても、毎年お盆が過ぎると住民総出で役柄を決め、練習が開始されるそうです。
といっても、この祭事に参加するのは男子だけ。
130人人にも及ぶ行列ですから、集落の男子全員参加は間違いないところでしょう。
今年初めて稚児に女児が参加したそうですが、これも過疎化のせいなのか、女性の進出の兆しなのかは私には分かりません。

その長い行列には、それぞれ役柄があり、参加するひとは「役者」と呼ばれるそうです。


お芝居をする訳でもないのですけれど、その扮装たるやまさしく「役者」さんと呼んで間違いなし!
とっても愉快なのです。

その役者さんをご紹介すると、まずは露払いに始まり、祢宜・鬼面をつけた悪魔払い・薙刀振り・ささら摺り・田打ち・大黒様・奴・花笠・おかめ・合傘持ち・笛吹き・太鼓打ち・鉦打ち・地歌方・幟持ち・世話人といった大編成。


まあ、豪華出演者勢ぞろいってところでしょうかね。
 “掛け踊り” といわれる所以は、明治の末ごろまで隣村であった母袋村から
峠を越えて声自慢の人たちがやって来て、踊りの合いの手に掛け合いの声を張り上げたことから “掛踊” といわれるようになったそうです。
現在は音頭取りの発した掛け声に地歌方が受けて返す形で歌われるそうですが、その掛け声がまた良い声で、民謡などほとんど分からない私でも聞き惚れてしまいました。

さて、この長い行列はちょっとした休憩を挿み、やがて “白山神社” へと向かい境内での奉納舞いが始まります。




奉納舞いは、役者たちが車座になった真ん中で “シナイ” という竹飾り(高さ3m重さ5㎏)をつけた4人の青年を中心に舞い踊られます。
 “シナイ” については、今年の2月に紹介した岐阜県揖斐川町の「谷汲踊」で紹介したものと同様で、少しだけ小型で軽量な感じかな。
4人のうち3人が太鼓、ひとりが鉦を打ち鳴らしながら、背中の “シナイ” を激しく地面を払うようにして勇壮に舞うなか、鬼や大黒様がちょろちょろとチョッカイを出しにきたりする場面もあり、とても愉快です。



周囲の役者さんたちも“シナイ”の青年たちを取り囲むようにしてグルグルと回りながら踊ります。
その手には作り物の鋤や鎌が握られ、この踊りが “五穀豊穣” を寿ぐ祭事であることを物語っていましたよ。

山間の小さな集落で、村人総出で天の恵みを祝い感謝する祭事。
この日も素晴らしい伝統に出会えました。


あいにくの小雨により早めの退散となりましたが、私にとってこの上ない充実した1日となりました。
美しい日本、美しい伝統、またひとつ宝物を見つけましたよ。
この祭事は、毎年9月の第2土曜・日曜に行われます。
みなさんも来年は、お出かけになられてはいかがですか?
本日も最後までお付き合い下さってありがとうございました。
では、次の秋祭りでまたお会いしましょう(^o^)/