2012年10月11日木曜日

例大祭を彩る「祭礼能」    -富永神社 新城市-

能「半蔀」

こんにちは。
今年の秋は、超スローペースでやってきましたね。
私の住む中部地方では10月だというのに、未だ気温が30℃という夏日があったりします。
「三寒四温」とは冬から春に向かう気候のことを言いますが、今年の夏から秋への移行は、さながら「四温一寒」といった次第で衣替えも儘なりません。
こんな調子で、いつになったら秋らしい秋が来るのかしら?
などと愚痴ったところで仕方ありませんが、それでも真っ赤な彼岸花が咲き乱れ、夕刻になれば涼やかな風にススキの穂が揺れる様をみれば日本の秋がそこにあります。
そんな秋の夜長をみなさんはどうお過ごしですか?

さて、今日は「芸術の秋」にふさわしい日本が誇る伝統芸能であり、且つ舞台芸術でもある「能楽」をご紹介しましょう。
と言っても、“能楽堂”で行われるような人間国宝の舞台を鑑賞に行ったわけではありません。


狂言「蟹山伏」


ビンボーな私としては、高額なチケットは買えないし・・・(-_-;)
しかし、この季節、探せば無料で見られる「能」の鑑賞会がけっこうあるのですよ。
「能」や「狂言」は高尚で小難しいと考えていらっしゃる方も多いかと思いますが、みなさんが「能」や「狂言」に縁遠い理由のひとつに、“チケットが高額すぎる”という理由はありませんか?
どうです?
無料だったら観てみたいと思いませんか?
この季節になぜ無料の鑑賞会が多いのかというと、それは「名月」にちなんで行われる特設された場所での「薪能」が多いからです。

私は先日、「薪能」を鑑賞すべく三重県伊賀市まで遠征した訳ですが、この日は雨によりあえなく中止(>_<)


能「半蔀」

この日の公演は近所の小学校の体育館で行われることになったのですが、総合芸術として篝火や舞台もない「薪能」では・・・ねぇ。
期待して行った私には落胆が大きく、もはや気力も無くし観ることもなくすごすごと退散となりました。
そんな調子で、今年の秋に「能」を鑑賞するのは諦めるしかないのかと思ったのですが・・・。
ところがところが!チャンスはありましたよ(^o^)/
しかも歴史ある能舞台を有する「富永神社」での“祭礼能”です。
「富永神社」は愛知県新城市の市街地にある神社ですが、こんもりとした木々に囲まれた静かで趣のある神社です。


能「半蔀」

「富永神社例大祭」の催しのひとつである「祭礼能」は、この日から3日間にわたって行われる祭りの序章といえるものらしいのです。
祭りの案内によると、新城「富永神社例大祭」の見どころは豊富で、山車巡行や笹踊り、手筒花火など盛りだくさんだそうです。
しかし、3日間毎日通ってその全部を見るわけにもいきません。
今日は私の独断と好みで、「祭礼能」のみのご紹介とさせていただきます。

随分と前置きが長くなってしまいました。
では、この日の様子を紹介しましょうね。
実はこの日、私は朝早くから母の13回忌法要のため浜松にある菩提寺に向かったわけで、「富永神社例大祭」を見るために出かけて行ったわけではありませんでした。

法要といっても大それたものではなく、遠方の姉や姪たちの都合もつかないので私ひとりでの法事です。
卒塔婆供養のみの、いつもの墓参りといささかも変わらぬものですが、ご先祖様に日頃の不信心を詫び、亡き父や母とゆっくりと語らう時間を持ちました。


狂言「花折」

いつもであれば親戚宅などに挨拶に伺うのですが、私には今ちょっとした事情(現在失業中)がありまして、アレコレ尋ねられることから逃げたい気持ちもありまして・・・(-_-;)
偶然というか必然というか前日に知った情報で「富永神社祭礼能」を知った私は、寄り道をして帰ることにしたのです。
のどかな風景が続く道を走り、富永神社に到着したのは5時頃でした。



狂言「盆山」
秋の宵はつるべ落とし、陽は西に傾き夕闇迫る頃、新城の町に入ると何処からともなく祭囃子が聴こえてきました。
この日の行事は各町内だけの催しと「祭礼能」で、そのほかの行事は明日からとなるそうなのですけど。
車を降りて神社まで少しの距離を散策してみましたが、家並みには祭り提灯が飾られていましたが街中はさして賑やかではありません。
露店らしきテントも立ち並んでいるのですが、何処も営業していません。
あれれ?間違っちゃたのかしら?
いえいえ、神社に到着したころにはすでに舞台は整い「仕舞の奉納」が始まっていました。
能舞台の前には観覧用の椅子も並べられていますが、半分にも満たない人々がチラホラ座っているだけです。


狂言「蟹山伏」

えっ・・・そんなもんなの?
いつもの光景、カメラに三脚の放列もありません。
少々気が抜けた感じはしたものの、空いていた最前列の椅子に着席。
しばらくは、こういっては失礼ですが少々退屈な「仕舞」をなんとなくボーっと眺めていました。
相変わらず、観客席は閑散としたまま・・・。




狂言「蟹山伏」
そんな中でも、子供による狂言「盆山」が始まると、なかなかに興味深く、面白くなってきましたよ。
狂言独特の言い回し、コミカルな動作、子供と言えども昨日今日のにわか仕込みの芸ではないことがすぐに感じ取れました。
しかし驚いたことに狂言の上演中にもかかわらず、富永神社にはゾクゾクと法被をきた町衆が入れ替わり立ち代わり来ては、ガラガラと鈴を鳴らしてパンパンと大きな拍手をして、お参りだけしてそのまま帰って行くではないですか(@_@;)



狂言「花折」

見る見ないは自由ですけど、平気で大きな音をたてるってのはどうなの???
私は関係者じゃないし文句をいう筋合いでもないでしょうが・・・。
まぁ、気を取り直してっと。

続いての大人による狂言「蟹山伏」、とても楽しい狂言です。
登場人物のキャラクターが明確で理解しやすく、見ている誰もが声を出して笑ってしまいます。
「やるまいぞ、やるまいぞ」の声とともに“橋掛り”(舞台へとつながる長い廊下部分のこと)にはけていく姿の滑稽さがなんともいえません。
すっかり楽しくなったところで、1時間の休憩となりました。
「能」は、このあと行われる予定とのことなので、少し腹ごしらえのためにコンビニでおにぎりを買って戻ってみると見物客は少し増えていましたが、まだまだ観客席には余裕があります。
おにぎり食べながら周囲の方々の会話に耳を澄ませていると、どうやら観客は出演者の親族ばかりのようで、とってもローカルなお話が聴こえてくるばかり。
周りを見渡しても、よそ者は私ひとりみたいです(^_^.)



能「半蔀」
どおりで、前日に新城市役所の観光課に「祭礼能」の時間を尋ねる電話をしたときも「さあ、よく分かりません」みたいな気のない返事でしたもの・・・。
まあ、そんなこんなですけど、いよいよ「能」の始まりとなりました。
演目は、「半蔀(はしとみ)」です。
この演目は「源氏物語・夕顔」にちなんだ作品です。
ストーリーについて簡単に説明しますね。
夏の終わり修行を終えた僧が歩いていると、1本の花を持った美しい女が現れます。
僧が、ひときわ美しく可憐なその花の名は何か?と尋ねると、女は夕顔の花であると告げるのでした。
僧が女の名を尋ねると、その女は名乗らなくともそのうちにわかるだろう、私はこの花の陰からきた者であり五条あたりに住んでいる、と言い残して花の中に消えてしまいます。
(ここで、場面はかわります)
里の者から光源氏と夕顔の君の恋物語を聞いた僧は、先刻の言葉を頼りに五条あたりを訪ねます。
そこには、昔のままの佇まいで半蔀に夕顔が咲く寂しげな家がありました。


能「半蔀」

僧が菩提を弔おうとすると、半蔀を上げて夕顔の霊が現れます。
夕顔の霊は光源氏との恋の思い出を語り、舞を舞い夜明けとともに消えていきます。
しかし、そのすべては僧の夢のうちの出来事であったのです。
短い恋、花の精のように儚く逝った夕顔を幻想的に描いた話です。
いやぁ、これは素晴らしかった!
鳥肌が立つくらい感激しましたよ。



能「高砂」
「能」について詳しいわけでもない私ですが、舞台芸術としての醍醐味をあますことなく堪能させていただきました。
舞いはもちろんの事、語り、大鼓・小鼓・横笛・地謡、能面、衣装、すべてにおいて日本という国の究極の美を感じました。
このあとも、狂言{花折」、能「高砂」と続きますが全部は書けないので、この辺までとしておきますが、どれも素晴らしいのひと言です。
観客も少なく、携帯電話は鳴るし、おしゃべりは聞こえるし、おまけにフラッシュ撮影までありの不作法極まりない観客だらけという点においては、納得しかねますけどね(ーー゛)

実のところ、会場の様子から察して最初から期待はしていませんでした。
たぶん、素人芸に「毛が生えた」程度のものであろうと侮っていたのも間違いありません(-_-;)


富永神社「能楽殿」

しかし、観ているうちにそんなことも忘れてしまうほど、見入ってしまっている自分がいました。
「新城能楽社」のみなさん、申し訳ありません。
素晴らしいです!
素人の余興芸であろうなどと侮った私を許してくだされ(-_-;)
侮った私も悪いけど、せっかくの「祭礼能」なのに観る人、取り巻く環境が酷すぎるのです。
私は新城の人間ではありませんが、ひとこと言わせていただきます。

何やってんだ!新城市役所!


上演最中に打ち上げ花火を上げるとは、どういうこっちゃ!
   富永神社「能楽殿 橋掛り
フラッシュ撮影自由とは、どういうこっちゃ!
携帯電話で話をしている人に注意もしないとはどういうこっちゃ!
いくらなんでも酷すぎます。
これはもう「祭礼能」に対しての冒涜としか言いようがありません。
実にもったいないです。
これほどの芸術に誰も振り向かないとは・・・。
申し訳ありません・・・つい興奮してしまいました(-_-;)
しかし、ここで声を大にして言わなければいけないことは、先ほど、氏子たちによる奉納と書きましたが、決して素人芸ではないということなのです。


能「半蔀」

「新城能楽社」によって守られてきた“新城能楽”は、ただ「富永神社の祭礼奉納」の保存・継承といったものに留まることなく、現在に至るまで能楽「喜多流」の講師による指導を請け、稽古を積み重ねた努力の賜物であり、その完成度の高さは大きな「能楽堂」で行われる公演になんら後れをとるものではありませんでした。
この素晴らしい格式と伝統を持つ「祭礼能」が、あんな扱いをされるなんてあり得ません。

私には到底理解不能です。
能「高砂」


怒ってばかりではしょうがないので、ここでいつものように、この神社とこの祭礼について少しだけ解説をしておきましょう。
ここ「富永神社」の創建は、慶長8年(1603年)といいますから400年以上の歴史があるのですね。
「富永神社」での奉納神事が行われるようになったのは、元文元年(1736年)だそうで、新城菅沼家三代目城主定用(さだもち)公の家督相続を祝って、町民が天王社(現在の富永神社)祭礼時に社前で舞囃子を奉納したのが始まりだそうです。
やがて舞囃子は「喜多流」を源流とした能楽に確立され、毎年「富永神社大祭」に氏子たちにより綿々と受け継がれ、社前で「能」を奉納するようになったそうです。



能「半蔀」

いろいろな社会情勢で一時中断の時期もあったそうですが、その他の祭礼が行われない年であっても「祭礼能」だけは奉納し続けられ、現在に至るまで276年の歴史を誇るに至ったのです。
現在ある能舞台は文政9年(1826年)に再建されたものですが、それでも186年の歴史を有するわけです。
それ以前の能舞台に関しては、あまり定かではないのですが、屋根もない掛小屋から始まり、やがて組立式の舞台に、そして格式ある能舞台に変化していったそうです。

能「高砂」

これほどまでに伝統がある「祭礼能」なのに悲しくなるほどの現状・・・。
現在は「祭礼能」より、ほかの祭事の方が中心となっている「富永神社例大祭」
賑やかに盛り上がる山車や花火も確かに楽しいでしょう。
時代の波と言ってしまえばそれまでです。
祭り好きな私としても山車や花火が大好きです。
しかし、このような素晴らしい「能舞台」を、このように素晴らしい「能楽」を、もっともっと多くの人に知ってもらう努力も必要ではないでしょうか。

余計なお世話でしょうか?
申し訳ありません<(_ _)>
普通にご紹介するつもりが長々と文句ばかり書き連ねてしまいました。

今回は、伝統芸能を守るということの難しさをあらためて考えさせられた一日でした。
では、今日はこの辺で失礼いたします。
今日も最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました。

では、また次のお祭りでお会いしましょう(^o^)/


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