2012年10月23日火曜日

手に汗握る地上12mでの迫真の演技   -大脇の梯子獅子 豊明市-

梯子獅子「藤下り」
こんにちは。
連日の更新で「お祭りには飽きた」と少々食傷気味の方もいらっしゃるかも知れませんが、秋祭り真っ盛りの季節なんで許してくださいね。
私にとって、祭りを訪ねるということは伝統文化を訪ねることであり、継承される努力をなさっている方にエールを送るとともに、ひとりでも多くの方に日本の奥深さを知っていただきたいという信念なのです。
その多くが「重要無形民俗文化財」と呼ばれるもので、“無形”の名が示すとおり、継承する努力を怠れば消えていく可能性もありうる行事なのです。


獅子頭
国や県、自治体のわずかな予算が割りあてられていたとしても、地域の人たち、あるいは「保存会」の人たちの努力によって守られてきただけにすぎません。
過疎化によって消えてしまった祭りも少なくないと聞きます。
そんなことになる前にひとつでも多く観ておきたい、そして伝えたいと願うばかりなのです。
ってな、少し大げさで偉そうなことを言ってしまいましたが、まぁ、ただのお祭り好きのオバサンのブログですから気軽に読んでいただければ嬉しいのですが・・・(^_^.)


歌舞

さて、余計な前置きはこれくらいにして、今回ご紹介する祭りも、またまた迫力満点のお祭りですよ(^o^)/
その名も「梯子獅子」
日本各地で“獅子舞”を観ることができると思いますがすが、なんてったって地上12mの高所で命綱もつけないで舞われる獅子舞なんて、そう観ることができないでしょう。
今日ご紹介するのは、ハラハラドキドキの連続、手に汗握るスリル満点の獅子舞なのです。


櫓と舞台
この祭りが行われるのは愛知県豊明市、名古屋市に隣接する小都市です。
近年は、名古屋市のベットタウンとして発展を続けていますが、まだまだ田園風景が広がる長閑なところですが、その昔は「桶狭間の合戦」の舞台ともなった地域でもあります。
今回の祭りの舞台となる「大脇神明社」は、江戸時代、大脇村と呼ばれていた地域の氏神様で、こじんまりとした神社ですが境内は広く、梯子獅子の大掛かりな舞台装置と広い観客席が余裕で楽しめる広さがあります。


幣舞



“獅子舞”自体の歴史については以前にも解説した通り、大陸からの伝来とされ、散楽(さんがく)となり、やがて神楽(かぐら)に枝分かれし、旅芸人によって広まっていったものです。
神楽=獅子舞ではありませんが、神楽において獅子舞は花形であり、したがって獅子舞の形態を残した祭礼がもっとも多く伝承されてきたといえるでしょう。
やがて、それぞれの地方に祭礼として根づいた“獅子舞”ですが、その意味合いは地方によって異なります。


お供物

海辺の村であれば漁に関するもので“豊漁祈願”や“安全祈願”であり、里山であれば“五穀豊穣”や“雨乞い”といった農事に関わるものが多いようです。
秋祭りに関して言えば、一般的に“豊作の感謝”といった意味合いがつよく、稲刈りも終わり農作業も一息つけるこの時期に村人が集まり、互いの労をねぎらい豊作を祝う行事とされています。
「大脇梯子獅子」においても、そういった意味合いで行われる奉納祭事なのだそうです。

余談ですが、日本の獅子舞には、大きく分けて伎楽(ぎがく)系と風流(ふうりゅう)系の二つの系統があるそうです。
おおまかに区別すると伎楽系は、胴幕の中に二人以上の人が入って舞う「二人獅子舞」が中心で、中部地方以南に多くみられ、風流舞は、関東・東北地方などで行われている鹿舞(ししおどり)と呼ばれるもので、鹿の頭をかぶり胸に太鼓を付けた一人舞い、太鼓を打ちながら踊るものが多いそうです。
「大脇梯子獅子」は、二人以上で行われる獅子舞ですから伎楽系の獅子舞といえるでしょう。

では、「大脇神明社」例祭の奉納芸能「大脇梯子獅子」についての歴史などをかいつまんで紹介しましょう。
「大脇梯子獅子」の始まりは約400年前といわれていて、現在の名古屋市中村区大秋町あたり、“則武之庄大秋村”から伝わったというのが定説です。
「大脇神社」での祭礼奉納として“梯子獅子”が文献に登場するのは宝暦年間(1751年~1764年)からで、大脇村の庄屋相羽養元が大いに奨励したため盛んになったと伝えらています。
言い伝えによると、この大脇村の庄屋さん、相羽養元は自分の邸内に櫓を立て、若者を集めて練習させたというのですから大した熱の入れようだったのですね。
しかし、この頃はまだ豊作の年だけに行われていただけで、凶作の年ともなれば祭りなどにかまけてはいられなかったのでしょう。

一時期、中断期間はありましたが、明治22年に“梯子獅子”の中断を嘆く同士が集まり、復興をめざし、後継者の育成に努力を重ねた結果復活をとげ、現在も「大脇梯子獅子保存会」によってその芸が守られているそうです。
団結と努力、これが伝統芸能を守り継承していくには欠かせないキーポイントなのですね。



それでは、この日の祭り風景へとご案内しましょう。
私が、会場になっている「大脇神明社」に到着したのは午前10時半。
はっきりとした日程を把握してなかった私は、とりあえず午前中に行けば間に合うのだろうと家を出たのですが「大脇神明社」は、まだ閑散としたものでした。
どうやら早すぎたようです(-_-;)
しかし、会場になっている境内には、すでに丸太で組まれた高くてしっかりとした櫓が組まれていて、やがて始まる“梯子獅子”に私の期待感は高まりましたよ。



見渡せば、櫓と舞台の前には観客席用のビニールシートが敷かれています。
フムフム、ここに座って観るのね、とひとり納得して、とりあえず社務所に向かい何時からの開始なのか尋ねたところ、午後1時からとのこと。
まだ2時間半も先なのか・・・
仕方ないのでお参りを済ませ、辺りを散策したり写真を撮ったりしていると、次々と軽自動車が現れ、座布団や毛布、小さなテーブルにお弁当や飲み物を運んではビニールシートの上に並べては消えていきます。
・・・ん?どうやら場所取りのようです。
そうなのか!あのビニールシートは観客用というより、地元の人の宴会席なのですね。
地元の人の地元の祭り、別に観光客など気にしない!この感じが決して嫌じゃありません。
むしろ凄く好きともいえるかな、だって、それだけ自分たちのお祭りを楽しんでいるっていうことですから、この祭りは消えて無くならないと安心できますもの。


観光客は、フラ~っと来てフラ~っと消えるだけの人達ですものね。
“祭りや伝統”を守るには、いろいろ方法があるけれど、大々的に宣伝して多くの人に知ってもらうことばかりが優先ではないのですね、こんな感じのローカルな雰囲気も大事にしたいなぁ~などと、やや矛盾したことを考える私なのですが・・・どうなんでしょう(^_^.)

まぁ、それはそれとして2時間半、仕方ないので車でお昼寝(-_-)zzz
開始時間も間近となり、駐車場も賑やかになってきたので出てみたのですが、子供たちが露店に群がっているばかり・・・ほかは、私のようなとカメラを持った“ヨソモノ”ばかりです。
いよいよ祭りが始まったのに、場所取りをした方々は一向に来ないのです。



ビニールシートの宴会席には、ポツリポツリ2~3人が座っているだけです。
まあ、それは地元の人あっての祭りですし、前列でカメラを構えてジャマになってもいけないので文句はないのですが、観客が少なすぎては演じている人に気の毒のような気がします。
しかし、そのうち理由が解ってきました。
この祭礼は、午後1時から始まり、夜8時頃まで続くという長丁場なのだそうです。
宴会席が盛り上がるのは陽も傾く頃。
同じ演技は繰り返されるので、始めから見ていなくても大丈夫らしいのでした。


梯子獅子「種まき」

さて、“獅子舞”はというと、地元の子供たちによる祭囃子から始まりました。
軽妙な祭囃子に、これから始まる“梯子獅子”への期待が高まります。
続いて舞台の上では御祓い神事が行われ、いよいよ獅子舞が始まります。
最初は、“幣舞(ぬさまい)”と呼ばれる獅子舞から始まりました。
この獅子舞は舞台の上でのみ行われ、梯子に登るわけではありません。
最初に行われる獅子舞ということで、悪魔払いの意味があるそうです。
“幣舞”は、“ばばさ獅子”という獅子頭が用いられ、幣(ぬさ)と呼ばれる祭具と鈴を持ち静かに舞われます。
こういった順番にも祭祀としての意味があるのですね。
次は、“歌舞”と呼ばれる獅子舞で、これも梯子には登りません。
“幣舞”に比べると少し激しい舞になります。



そして、いよいよ“梯子獅子”の登場です。
獅子頭は“おとこ獅子”と呼ばれるもので、先ほどの“ばばさ獅子”の獅子頭より少し小振り。
横で演奏される軽妙なお囃子にのって、赤と緑の胴幕で現れた獅子は軽業のようなコミカルな動きをします。
薄い胴幕は、高いところでの演技において視界をよくするためと少しでも軽いほうが動きの妨げにならないためでしょう。


ひとしきり舞台でのコミカルな演技を披露した後、51段の梯子(地上12m)を登っていくのですが、なんと一人を肩車に載せたままで登っていくではないですか(@_@;)
梯子を登る間にも片手を離して手を広げたり、お囃子に合わせて身体を揺らしたり、それはハラハラドキドキの連続です。
頂上の丸太に乗り移ると、踊りながら隅から隅へと軽妙に動き回ります。
そして、クライマックスの「藤下り」という技を披露。
「藤下り」とは、二人揃って丸太に足をかけ手を離して宙ぶらりんになる芸で、観客からは悲鳴のような感嘆の声があがり、その後拍手喝采が沸き起こります。
私も一瞬ヒヤリと背中に寒いものを感じ、無意識に声をあげていました(~_~;)
とにかく凄い!二人の息が合ってないと決して出来ない演技です。


歌舞「剣呑み」
もう、この時点で私は興奮状態、カメラなんて撮ってる場合じゃない!って感じです。
やがて櫓の上での演技が終わると、舞台右側に用意された2本の丸太の滑り台を踊りながら滑って降りてくるのですが、これもまた珍しい光景で楽しくなってしまいます。
いや~素晴らしいです。
上手く説明できないのがもどかしい・・・(>_<)
これは、ぜひ皆さんにも見せてあげたいです!



その後は、また“立ち舞”や“歌舞”の獅子舞が続くのですが、“梯子獅子”を見てしまったあとでは、なんだかつまらく感じてしまうのが演じ手の皆さんに申し訳ないのですが・・・(-_-;)
そして2回目梯子獅子の大技は、「波打ち」と呼ばれる芸で、一人が丸太の上でもう一人の身体をしっかり掴み、一人が波打つように身体を前に突き出すといった、これまたスリル満天の演技(@_@;)
またもや拍手喝采です。
この頃になると、地元の方も三々五々集まって来て、会場も賑やかな雰囲気になっていき、掛け声もかかり、おひねりも飛び交います。
いよいよ、祭りらしくなってきましたよ、楽しいですね。

“梯子獅子”の後は、また“立ち舞”や“歌舞”といった感じで交互に進行していきますが、やっぱり花形は“梯子獅子”なんでしょうね。
地元の皆さんも飲んだり食ったりに忙しいようすです。
そして、3回目の“梯子獅子”です。
3回目の“梯子獅子”の大技は「種まき」、肩車をしたまま下の人が片手片足でバランスをとって、身体を開いて種を蒔くしぐさをするのです。
何回も簡単そうにちょちょいとやってのけてしまうのですが、見ている方は、もう、ヒヤヒヤものですよ。
一応下にはネットが張ってはありますが、それでもやっぱり怖いです。
見ているだけなのに怖いのです。
演じている人達は平気なのかなぁ~

やっぱり日頃の練習が大事なのでしょうね。
祭りは、まだまだ夜まで続きますが、ひと通りの演技を見せていただいたので、この日は帰ることにしましたが、いや~、今回の祭りも素晴らしかったです。
手に汗握るスリルと迫力、なかなかこんなお祭りには出会えませんよ。

補足ですが、愛知県には、県指定重要無形民俗文化財として、もうひとつ知多市で行われる「朝倉梯子獅子」と呼ばれる“梯子獅子”があります。
どちらかといえば、「大脇梯子獅子」よりも知名度は高いのですが、今回私は敢えて「大脇梯子獅子」を選びました。
その理由は、県内の人にもあまり知られていないこと、そして、より地元の祭りといった風情を強く感じられるのではないかという期待からです。
そして、その期待を裏切らない地元に密着したお祭りでした。
まさに、隣近所の人たちが寄り集まって一年の労をねぎらい、互いに食べて飲んで楽しむ、そんな風情たっぷりなお祭りでしたよ。
どうですか?
皆さんも見たくなったでしょう?

私も次にまた、このお祭りを見る機会があったら、その時はお弁当持参でビニールシートの桟敷に座って楽しんでみたいなぁ~なんて思ってしまいましたよ。

今回も長々と書いてしまいましたね。
最後までお付き合い下さってありがとうございました。
ではまた、次のお祭りでお会いしましょう(^o^)/






2012年10月16日火曜日

三河の地に伝承される農民武術 棒の手   -猿投神社 豊田市-


こんにちは。
朝晩の冷え込みも厳しくなり、北の方から紅葉の便りも届く季節となりましたね。
秋祭りも益々本番の時期となり、日本の伝統芸能をひとつでもたくさん見ておきたい私には、やたらと忙しい時期なのでありますが、これも個人的趣味なので皆様には気軽に読んで頂ければと願っています。

では、今日も全力で飛ばしていきますよ。
今日ご紹介するのは、「猿投(さなげ)神社」の祭礼、猿投祭りの「棒の手」奉納です。

この地方にお住いの方は知っておられると思いますが、「棒の手」と言われても分からない方が多いことでしょう。
「棒の手」とは、この地方に伝承されている武術のひとつで、群雄割拠の戦国時代、農民たちの自衛武術として発展した武術のひとつです。
その戦術は、いかにも農民らしく泥臭いものであったとされていますが、やがてこの地も戦乱に巻き込まれていくと、戦士補充のため領主によって指導者が派遣されるようになります。
指導者の違いでいくつかの流派が形成されますが、その基本は刀や槍といった武士の武器だけにとどまらず、棒や鎌など農民の身近にある道具さえも使われたのです。

長老

そんな農民の中から、その後、三河武士と呼ばれる農民出身の武士が生まれてきたわけですね。

祭りの行われる「猿投神社」は名古屋市のお隣の豊田市郊外にある歴史と格式を誇る優美な神社です。
総門を潜ると参道には樹齢200年ともいわれる杉並木が続き、猿投山を背景に立派な社殿が見えてきます。
境内には、拝殿・四方殿・中門といった壮麗な建物が連なり、中門の中ほどの奥に本殿があります。
また中門の右側には、外社として塞神社・広沢天神社・御鍬社・洲原社・御嶽社・建速神社・秋葉社が並んでいます。



猿投神社参道
古くはこの猿投山全体が御神体であったとされ、崇拝対象になっていたそうですが、現在の猿投山も深山幽谷の名残を残し、東海遊歩道の一部とされいて軽装での山歩きを愉しまれる方に人気の場所です。
また、この神社には古くから“鎌”を奉納して祈願する習わしがあり、境内には“絵馬”ならぬ“鎌”が並んでいるのがほかの神社とは違うところです。
“鎌”を用いて開拓した農民力といったものを感じることが出来ますよ。

御輿渡御

さて、ではお祭りの様子をお伝えしましょう。
「猿投祭り」は10月の第2土曜、日曜の2日間行われますが、私の訪れたのは土曜日で「試楽祭」の日です。
翌日の「本楽祭」とは違い、陽が落ち、辺りも暗くなった午後7時からの開催となります。

もちろん「本楽祭」の方が賑わいをみせますが、私は篝火が燈される中で行われる勇壮な奉納行事を見たいと思い、あえて「試楽祭」の日を選びました。
この祭りの行われる「猿投神社」は、我が家からは車で40分といった距離でもあり、私の好きな神社で普段から度々写真を撮りに行くことのある神社ですから、勝手知ったる庭のようなところでもあるのです。
早めの夕食をすませ、6時には到着。
カメラを携えた人たちも結構たくさん集まっていましたが、押し合い圧し合いの状況ではありません。
8割の人は地元の方のようです。




拝殿横に用意された椅子に腰かけて待っていると、カメラを持った地元のオジサンが話しかけてくれました。
おかげでこの日の行事の見どころや進行の様子も聞くことが出来て、とてもラッキー(*^^)v
ところが、このオジサンどうやらカメラ初心者らしく、私にカメラの扱いについて尋ねてくるのです。


私も他人に教えてあげられるほど上手くはないし、カメラメーカーも違うので教えてあげるなんてとても出来ません。
ましてや暗闇での撮影となると、私の知識なんてあやふやもいいところです(-_-;)
「私も初心者でよく分からないのです」と謝って、「お互いに頑張りましょう」とかなんとか言って誤魔化しちゃった・・・
ごめんなさい、オジサン<(_ _)>


献馬奉納

それでも、やさしいオジサンと並んで待っていると火縄銃の空砲が次々と轟音をあげ、いよいよ祭りが始まりました。
御輿を担ぐ男衆の禊が神社横の滝で始まり(ここは撮影禁止)幕で囲われた中から気合の声が響きわたってきました。
めっきり冷え込んできた時間帯、寒いだろうなぁ~
男衆は禊を終え下駄をぶらさげて出てくると一旦どこかに戻り、白装束に着替え本殿へと入っていきました。
どうやらお祓いの儀式が始まったようです。
本殿前には明々と燃え盛る松明と御輿が用意され、その時を待っています。


いよいよです、御輿渡御が始まりました。
もう、なにがなんだかわからない勢いでシャッターを押しているうちに御輿は拝殿に収まってしまいました。
その距離7mくらいですから、あっという間の出来事なのです。
しかし、これで終わった訳ではありませんでした。
御輿は1基だけではなかったのです。
どこから来たのかは分かりませんが、物凄い勢いで続いて2基やってきて拝殿には3基のお神輿が並びました。
なかなか見事な光景でしたよ。


勇壮な法螺貝や空砲を合図に“八鎮”と呼ばれる境内の警備の責任者さんたちに続いて長老や武芸者の行列がやってきました。
この“八鎮”さんですが、八方のもめごとを鎮める役目からそう呼ばれているそうですが、その衣装が面白いのです。
なぜか山高帽に鉢巻、法被姿、その手には提灯が持たれています。
戦国時代から帽子があったとも思えないので明治の頃からこういう衣装になったと思われますが、妙におしゃれでカッコいいのです。
すいません、また話が脱線してしまいましたね。
もとい!
続いて献馬の奉納神事が始まります。
“警護隊”と呼ばれる人達によって豪華な馬具で飾られた馬が登場するのですが、一瞬のうちに目の前を走り抜けていってしまいました。

オジサンに教えられていたとおりの場所でカメラを構えてはいましたが、一瞬のことで撮れたのかどうなのか自信がありません。
始まってしまったら、モニターなどで確かめる余裕なんてないのです。

あれよあれよという間に御輿渡御や献馬奉納行事が終わると、本日のメインイベント「棒の手」の奉納が始まりました。


どこかの招待イベントでの「棒の手」演技は見たことはあるのですが、本格的なものは初めて観る私です。
なんだか少し緊張します。
ちょっとした説明はありましたが、いきなり始まった「棒の手」の迫力は半端じゃありませんでした(@_@;)
ピーンと張りつめた雰囲気のなか、「ヤァー!」「トォー」の鋭い掛け声が響き渡ります。


刀や槍、長刀やカマ、十手などいろいろな武器が登場しますが、傘ひとつで応戦したり、体すれすれに突き刺さる槍などの迫力に大勢の見物者の拍手とどよめきが広がります。
武術とは縁遠い私は観ているだけでも怖いくらいです。
剣道、柔道、合気道は知っていても、こんなにも多くの武器を使い分け戦う武術も珍しいことだと思います。
ちょっとやそっとの練習では極められない技と技術なんだろうなぁ~とつくづく感心しましたよ。
戦国時代の昔、実際の戦いともなれば武器など選んでいられる余裕などもなかった足軽にとっては、より実践的な武術だったのでしょうね。
実に感服いたしました。



「惚れてまうやろ~」ってな具合で、どの演技者も実にカッコいいのです。
オバサンに惚れられても困るでしょうが・・・(~_~;)
そんな大人の勇壮な演技の横では、小さな子供たちによる演技も行われていましたよ。
こちらの方はご愛嬌といった風情ですが、いづれこの子たちがこの素晴らしい武芸の伝承者と育っていくのでしょうね、楽しみです。





では、いつものお勉強で今回のお祭り紹介の〆といたしましょう。
最初に説明したとおり、「棒の手」はもともと室町時代から受け継がれてきた農民による自衛武術といわれています。
発展したのは、戦国時代。
戦乱の世に、この武術を極め、農民から足軽へ、また功をなし武士へと昇り詰めた武人も多くいたことでしょう。

しかし、平和な時代が来ると、また農民の自衛武術に戻っていきます。
農作業が本来の仕事である農民にとって、もはや武術自体が必要な時代ではなくなっていきますが、それなりには受け継がれていったようです。
そんな中で、「猿投神社」祭礼に披露するという晴れやかな舞台が用意されるようになり、それがのちに「五穀豊穣」祈願の奉納へと変化していったようです。


なので、「猿投祭り」の「棒の手」奉納については、はっきりとした起源は解っていません。
「棒の手」自体も戦国時代から江戸時代に、いくつかの流派にも分かれていったので余計にはっきりとしませんが、この地方に伝承される武術としての「棒の手」は、室町時代を起源として約400年の歴史を有するとされています。
また、この「棒の手」は愛知県指定重要無形民俗文化財に指定されていますが、芸能として残っただけでなく、現在も武術として存続しています。
この地方では剣道や柔道といった武道と変わりなく、普通に「棒の手」の稽古場があり、大会もあるそうですよ。
習いたいと思えば誰でも習えるのですね。

ここ「猿投神社」に限らず、「棒の手」の奉納される神社はほかにもあり、昔、三河や尾張といわれた東海地方では馴染みのある伝統の武術なのです。
東海地方は、名だたる武将の出身地でもあり、故に歴史にその名を残す合戦場もいくつかあります。
桶狭間や長久手といった日本史の教科書や大河ドラマでも有名な合戦場で活躍した武術が「棒の手」だったのではないかと想像は膨らみます。

私のみならず、農民武術と聞いて泥臭いものを想像した方も多いのでしょう。
しかし、それはとても勇壮で優美とさえいえる武術でした。
武将好きの皆さん、城ばかりではなく、一度「棒の手」を観に来てみませんか?
戦国時代を疾風のごとき駆け抜けた武将の姿を垣間見ることが出来ると思いますよ。

今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
ではまた、次のお祭りでお会いしましょう(^o^)/






2012年10月13日土曜日

多彩な芸能と老若男女町内総出の大祭り  -掛川大祭-

獅子舞かんからまち

こんにちは。
いきなりですが、今日はまさに祭りらしい祭り「掛川大祭」のご紹介をいたします。
日本全国が秋祭り真っ盛りのこの時期、お祭りフリークの私としては毎回どこを訪ねるかが思案のしどころなのですが、いまひとつ惹かれる祭りが見つからないでままでいました。
近隣で行われる素晴らしい祭りも数々あるにはあるのですが絞れないままで悩んでいたところ、どうしても見てみたい!と思える祭りを見つけてしまったのです。




私の場合、主にインターネットによってリサーチをするのですが、伝統を重視しながらも結局直感だよりなんですけどね。
おおまかな判断材料は「重要無形民俗文化財」という単語が有るか無いかによるのですが、「重要無形民俗文化財」だからといってすべてが素晴らしいものとは限りません。
思えば数々の空振りもありました(-_-;)
しかし、今回「掛川大祭」を選んだのは「重要無形民俗文化財」という単語に惹かれただけではありませんでした。


案内を読んだ時点で、空振りにはならないだろうと確信が持てたのです。
それは、とにかくこの祭りが見どころ満載であるいうことなのです。
山車もあれば獅子舞もある。奴行列に大獅子。
そう聞けば見逃すわけにはいきますまい。
なにせ、4日間にも及ぶ凄っごい祭りでありますので、どうやっても全部は見ることも出来ないし、紹介することも出来ないでしょうが、そこのところはご容赦くださいませ<(_ _)>

では、前置きはこの辺までとして、この大がかりな祭りをご案内いたしましょう。
朝一番で家を飛び出して、掛川市に到着したのは午前9時半。
市内には早くも交通規制が布かれいたので駐車場探しに少々手間取りはしましたが、それでもなんとか車を置いて歩き出したのは10時頃です。
連休の最後でもあり、祭り最終日でもあるので、それほどの人出はないものと見込んだ私にとっては、まったくの計算違い。


さすが3年に1度の大祭とあって、掛川の街中はこの時間から老若男女市民総出といって間違いないほどの人で溢れているではないですか(@_@;)
そのほとんどの人が法被姿か祭り衣装を着ているのですから、観光客ではなく地元の方に間違いありません。

なんとまあ、掛川市ってこんなに人口が多かったっけ?と思わせるほどの色とりどりの法被姿。
さながら、休日の原宿状態といったようなカラフルさです。



目の前を次々と横ぎっていく屋台(遠州地方では山車ではなく屋台と言います)行列にも目を瞠るばかりです。
屋台自体は2輪の御所車タイプで、そんなに大きなものではありませんが、立派な彫刻が施され美しい刺繍の天幕も見ものです。
38台もあるという屋台が次から次へとゾクゾクと現れるのですから、おのぼりさん状態の私はキョロキョロするばかり。

あっちを見ては写真をパシャリ、こっちを見てはまたパシャリ、切りがありません。
屋台を引く町衆にはそれぞれ揃いの法被がありますが、41町もあると これがまたバラエティ豊かなので見ているだけで祭り気分も高揚します。


そんな法被姿の町衆に囲まれた真ん中あたりに、華やかな時代衣装で着飾られた女の子が数名いる屋台行列を発見しましたよ。
その昔、花街と言われた町なのでしょうかね、まさに“晴れ姿”の少女達、その愛らしさといったら言葉にできないくらいです。
戦前の頃には「衣装祭り」とも呼ばれただけあって、法被に限らず、それぞれの町にはそれぞれの伝統の衣装があるようです。
とにかく見ているだけでワクワクが止まらないのですが、とりあえず祭りのメイン会場となっている掛川城前のお祭り広場を目指し、なんとか辿り着きました。
そこで祭りのパンフレットを貰った私は、その日の行事予定表を見てどう行動するべきか、しばし検討タイム。
やはり、お祭り広場に留まり午後から始まる各町内の余興を見ることが効率的のようです。


そこで早めのランチをとるべく1軒の蕎麦屋に入ったのですが満席。
あきらめて出ようとすると、呼び止められたのです、普通のお客さんに。
「混んでるときは、相席すりゃあいいだよぅ」
懐かしい遠州弁・・・
言い遅れましたがワタクシ浜松生まれの遠州っ子であります。
嬉しくなって 即 お言葉に甘えて、ひとつ空いてる椅子に座らせていただきました。
・・・故郷の 訛り懐かし 蕎麦屋かな・・・お粗末(-_-;)


では、またまたいつものお祭り講座を始めますよ。
掛川祭は、掛川城が今川氏の家臣朝比奈泰氏により築城された約500年前に始まった祭りといわれていますが、はっきりとした資料が残っている訳ではありません。
現在行われている祭りのすべてが、その頃から続いているとは言い切れませんが、どこの祭りでもそうであるように、祭りの姿は時代とともに少しずつ変化するものです。
この「掛川大祭」に於いても、戦国時代から天下泰平の江戸時代とでは経済状態あるいは生活環境といったものが随分と変化した訳ですから、祭りの形態が変化していったとしたも当然であったでしょう。
しかし、そんな歴史の中で約420年前に掛川城天守閣を創建した当時の掛川城主、山内一豊が掛川のまちを造成・構築したことによって掛川宿は栄え、「掛川の祭り」が盛んになっていったのであろうとも言われています。

「掛川大祭」で一番古くから行われている瓦町の余興、県指定無形民俗文化財の「獅子舞かんからまち」を確認できる最古の文献には、宝暦3年(1753年)と記されているそうです。



獅子舞についても、詳しいことは分かっていませんが、掛川城や掛川藩と密接に関わっていた瓦町の栄華を誇るものであることは推察できるかと思います。
「獅子舞かんからまち」のような形態の獅子は「三頭獅子」「三匹獅子」と呼ばれ、関東地方から東北地方にかけて広く見られそうですが、なぜそのエリアから離れてる掛川に残ったのかは解明されていません。
この「獅子舞かんからまち」の舞いについては、関東・東北で一般的に「雌獅子隠し」と呼ばれる場面が中心ですが、途中で側転が入るところが最大の特徴見どころなのだそうですよ。
私もしっかり見てきましたよ、ただし遠すぎる上、障害物も多く側転場面は写真には撮れませんでしたけれど(-_-;)


そして、もうひとつ市指定有形・無形民俗文化財に登録されている獅子舞に紺屋町の「木獅子(きじし)」があります。
残念ながら日程の違いで今回は拝見することが出来ませんでしたが、この「木獅子」の獅子頭は獅子舞の研究者からは400~500年前まで遡るほどの年代物であると言われているそうです。
端的に言えば、現在行われている掛川祭の原型どうであれ、宝暦年間(1751年~1763年)に獅子舞が始まり、嘉永2年(1849年)には現存する最古の屋台が購入されたという事実が残っていることから、少なくとも幕末には現在の祭りに近いものであったことは間違いないだろうと推察されるわけです。。
そして、掛川の祭りがほぼ現在の形になったのは、今から100年以上前の明治時代中期のようです。
「三大余興」のひとつとされる西町の「奴道中」に至っては、その始まりが明治28年の日清戦争祝賀行列の出し物として登場したのが最初とされていますから、祭りとは関係ないところからの始まりで、その後、祭りに組み込まれたとのことです。



華やか物好きな遠州人の大らかさ、あるいは度量の広さとして受け止めましょう。
また、戦前の掛川の祭りは、その優美さや豪華さから「衣裳祭り」とも呼ばれたそうです。
やがては静岡県内屈指の「屋台祭り」となり、現在でも大規模な都市祭礼に成長し続ける「掛川大祭」
祭りらしい祭りのない大都市や新興都市の「市民祭り」的な祭りには興味を持てない私でしたが、そんな祭りでも続けていけば、いずれは伝統になることに気づかされた心地がしました。
歴史と伝統を守った上で成長する祭り、大いに結構としましょう。




では、またお祭りの現場に戻りますよ。
食事を終えて広場に戻った私ですが、もうそこは人、人、人で埋め尽くされていました。
「遅かりし由良之助」←年齢がバレてしまいそう・・・ちょっと古過ぎますね(-_-;)
到底、入り込む隙なし。
ところがドッコイ簡単に諦める裕子さんではありませんよ。
辺りをぐるぐると探し回り、少々遠くてあまり良い位置ではないですが300mmの望遠レンズで狙える場所を確保しました。
実は、
ここでも地元の方にお世話になったのです。



カメラを構えて確かめながらウロウロしている私に、孫を連れた知らないおじいさんが手招きしてくれるのです。
ん?私?なんで?
おじいさんは孫を抱きかかえ、横にちょっとしたスペースを作ってくれたのです。
いいのかなぁ~と思いながらも人を掻き分けていくと、おじいさんが「写真撮るなら、ここが良く見えるだら」と、またもや懐かしき遠州弁で言ってくれたのです。
ありがたき幸せ、もう掛川の人が大好きになってしまいそうですぅ・・・(T_T)





さて、話は実況中継に切り替えて、県指定無形民俗文化財であり、祭りの呼び物“三大余興”のひとつ「獅子舞かんからまち」は、神事ということで建物の2階などから見下ろすことも禁じられ、厳かな雰囲気で行われました。
それでも獅子の側転が行われると拍手喝采、凄い盛り上がりです。
「花幌」を被った可愛い少女たちの行列も見る人の目を奪うばかりです。
その後も「かっぽれ」や「祭囃子」など、次々と各町の余興が披露され観客をまったく飽きさせません。
いよいよ、“三大余興”のもうひとつ「奴道中」が始まると、その華やかさにいっそう拍車がかかります。

衣装も道具も半端なものではありません。


さすが「衣装祭り」の異名を頂くにふさわしい豪華さです。
ちんけな仮装行列とは品格が違うところを存分にみせつけられました。
余興はまだまだ続くのですが、最後の“三大余興”のひとつ「大獅子の舞」が始まるのは午後4時以降ということなので、道路に直座りの体勢に疲れた私は、おじいさんにお礼を言って祭り広場を離れ、屋台の巡行を見に行くことにしました。
どこを歩いていても、どんな路地であろうとも豪奢な屋台に出会えるの祭りです。
なんせ38台もあるのですから、写真を撮っていてもどれがどこの屋台なのかは、さっぱり分からなくなってしまいます。
そして、その屋台を引っ張る町衆は、若者に限らず、ましてや男に限らず、女性や子供、おばさんや老人にいたるまで全員が揃いの法被に身を包み、本当に祭りを楽しんでいる笑顔に満ちていました。

どんな祭りであろうと、あふれる笑顔が多いほど素晴らしい祭りはありません。
この笑顔が、私を祭りに導いてくれるのです。

などと思いながら屋台見物に夢中になっていた私は、結局ウロウロしているうちに「大獅子の舞」は見逃してしまいました。
しかし、今回も早起きして高速道路をひた走り、出掛けて行った甲斐がありました。

帰り道、思う存分祭りを楽しんだ私は、渋滞に巻き込まれながら考えました。
祭りの歴史や伝統ばかり追っていた私ですが、はっきりとした起源などわからなくてもいいのかもしれない。
研究者でもないのですから、年号にこだわる必要もないのです。
いつから始まったのかという事実自体は、.さして重要な問題ではなくて、どういう状況の中でどうやって受け継がれてきて、現在があるのかということが大事なんだと気がついたのです。

それはすなわち、これからの未来に伝統芸能や祭りを受け継いでいくヒントになるのではないでしょうか。
祭りは文化の鏡。


この日の「掛川大祭」のように伝統と一緒に進化もついてくる祭りも、静かな山村に綿々と受け継がれてきた祭りも、形や進化が違えど、もともとは神社の神事として始まったもの。
どんな祭りにもその祭りの持つ個性や魅力がありました。
だからこそ面白い。
益々、祭りの魅力に惹きこまれる私なのであります。

今日も長々とお付き合いいただきましてありがとうございました。
今日はこの辺で失礼いたします。
ではまた、次のお祭りでお会いしましょう(^o^)/