2012年6月26日火曜日

お氷上さんのお田植え祭り   -氷上姉子神社-

熱田神宮 大高斎田御田植祭

こんにちは。
きょうは、先日ご紹介した「熱田神宮」の摂社でもある「氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)」をご紹介いたします。
ところで、摂社(せっしゃ)とは?
「摂社」とは、本宮(今回の場合は熱田神宮)に附属し、その祭神と縁故の深い神様を祀られた神社のことです。
大きな神社の場合、本宮のある境内に祀られることが多いのですが、この「氷上姉子神社」のように境内とは離れた場所にある摂社のことは、「境外摂社」というそうです。



「氷上姉子神社」 の創建は、持統天皇4年(690年)といわれていますから、約1300年余りの歴史がある訳ですね。
では、御祭神はというと、熱田神宮の始まりにも登場された日本武尊(やまとたけるのみこと)のお妃様、宮簀媛命(みやすひめのみこと)であります。
あれ?熱田神宮に「草薙の剣」をお祀りした
宮簀媛命が、なんで別のところに?
って、思いますよね。
しかし、熱田神宮の御祭神は、あくまでも「草薙の剣」であり、「熱田大神」なのです。
私などは、宮簀媛命が熱田神宮を造ったのだから、熱田神宮にいらっしゃるべきではないの?と単純に考えてしまうのですが、そうではないのですね(-_-;)



宮司さんと巫女さん


宮簀媛命はもともと、この地「火高火上(現在の緑区大高町)」のお生まれだとか・・・。
宮簀媛命の父君、乎止与命(おとよのみこと)が尾張国造であられ、この地に館があったそうなのです。
ですから、この場所に祀られるているのですね。
ちなみに、その昔この地は、「火上の里」と呼ばれていたそうなのですが、度々の火災により社殿も被害にあったことから、「火上」は「氷上」となり、「火高」は「大高」となったそうですよ。



氷上姉子神社
また、「姉子」とは「夫のいない乙女」という意味だそうで、 日本武尊が遠征中に留守を守る妻を偲んで詠んだ歌から名付けられたとか・・・。
神様もラブラブだったりするわけですね(^_^.)

では、「氷上姉子神社」をご案内しましょう。
名古屋市緑区にある「氷上姉子神社」は、緑豊かな住宅街のはずれの鬱蒼とした森に囲まれてひっそり佇んでいました。
と、いってもすぐ脇には名古屋高速道路や主要幹線道路が通る場所で、現在は静かとは言えない環境にあるのですが、そこだけが時間に取り残されたような静けさに包まれています。



現在の「氷上姉子神社」の社殿は、熱田神宮境内にある別宮の「八剣宮(はっけんぐう)」が建て替えられるにあたり、移築されたもので戦災を逃れた貴重な建物です。
その造りは、この地方独特の神社建築で「尾張造」と呼ばれる本殿と拝殿を回廊で繋いだ左右対称の建築様式なのだそうです。
これは、見ておくべきポイントですね(^_^)b



毎年6月の第4日曜日に行われる
さて、今回私がここを訪れた目的は、熱田神宮の「御斎田」である「大高斎田御田植祭(おおだかさいでんおたうえまつり)」を見学するためです。
斎田(さいでん)とは、神様にお供えする「特別なお米」を育てる田んぼのことです。
神様にお供えするお米を作るのですから、神聖な場所であり、神聖な神事が執り行われる場所というわけですね。
それが
「大高斎田御田植祭」なのです。
日本古来から受け継がれてきた伝統ある「神事」である以上、私の見たいという好奇心は止められません。



この日も朝早くから、カメラを手にいそいそと出かけて行きました。
10時から始まるこの「神事」に備え、9時には到着したのですが「御斎田」の周りには早くもカメラの三脚がズラリと並んでいます。
いつも思うのですが、三脚で場所取りをするのって「アリ」なんでしょうかねぇ

 (ーー゛)
そりゃあ、私だって良い位置で写真撮りたいですよ、気持ちは分かります。
撮りたいですけど、三脚を使う場合、見物にいらっしゃるほかの方にも配慮というものが必要なんじゃないですかね。
最前列で、ドーンと三脚を立てられてしまったら、後ろで見学なさる方の視界の妨げになるのではないかと考えないのしょうか。
別に三脚なんて、なくったって写真は撮れます。

見物に来られる方のほどんどが、普通に携帯やコンパクトカメラで写真を撮っていかれます。
大きくて立派なカメラをお持ちの方々が、なんで大袈裟に三脚を構えておられるのか私には理解できません。
そして、この日もカメラマン同士の小競り合いが発展して暴行事件があったようです。
ほんと、バカバカしい(ー_ー)!!
神聖な「神事」が執り行われるその場所で、なんとも愚かなことです。

あっ、また勝手な事をぼやいてしまいました。
どうぞお許しくださいませ <(_ _)>


では、いよいよ「大高斎田御田植祭(おおだかさいでんおたうえまつり)」をご紹介しましょう。
「お田植え祭り」は、日本中のどこの農村でも行われる素朴なお祭りであり、「御斎田」であろうと普通の田んぼであろうと、その意味合いに変わりはなく、田んぼの神様にその年の豊穣を祈る祭りです。

大高の地に「御斎田」が造られたのは昭和7年のことで、「御田植祭」も今年で80回目を迎えるそうです。
宮司さんの長~い長い祝詞や儀式の後、巫女さんの踊りが終わると、いよいよ早乙女さんたちが田んぼの周りに勢ぞろいします。
知らない方もおられるかもしれないので「早乙女さん」の説明をしますね。
「早乙女(さおとめ)」とは、簡単にいうと田んぼに苗を植える女性のことです。
「早苗植女(さなえうえめ)」が「早乙女(さおとめ)」になっていったようですよ。

昔は、田んぼの主の家族の若い娘さんを指して、早乙女と呼んだそうですが、現在は、こういった行事の主役ともいえる役どころの女性のことを「早乙女さん」と呼んでいます。
というわけで話は
御田植祭」に戻しましょう
今回のヒロインの早乙女さんのいでたちは、緑に白い水玉模様の着物に白い帯、手甲・脚絆に菅笠姿。
目にも鮮やかな緑色が爽やかで、とても可愛らしいです。
地元の農協(JA)の職員さんだそうですよ。

早乙女さんたちは、哀愁をおびた「田植え歌」にあわせ舞を披露したあと、いよいよ田んぼの中に入っていきます。
少しばかり、足元がおぼつかない感じではありますが、橙色の装束の男性(おそらく農業を専門になさっておられる方)の介添えで、田植え歌にあわせながら早苗を植え付けていきます。
その風情が、なんとも美しく、日本情緒あふれる光景なのです。

いいなぁ、こういう伝統行事。
大事に守っていかなくてはいけないよなぁ(^_^)

ひとりで勝手に満足して、夢見心地のまま駐車してある車のもとへ戻った私ですが(*_*)!
なっ!なんと!私の車の前におまわりさんが立っているではないですか・・・ガーン!
あわてて走って行って、おまわりさんに謝り倒したら「今日はお祭りだから、いいよ。ただちょっと苦情が入ったから早くどけてね」で許して下さいました。
ご迷惑をおかけしてしまった方々、大変申し訳ありませんでした<(_ _)>
路上駐車はいけませんね、反省いたします。



こんな具合で、ホンワカしていた気分も吹っ飛んでしまったのですが、自分が悪いので仕方ありません。
しかし、考えてみたら違反キップを切られなかったのも、 氷上姉子神社のご加護かも。
そう思ったら、ホンワカ幸せ気分も戻ってきましたよ。

ありがたや、ありがたや(^o^)/




2012年6月22日金曜日

トイレの神様とゆりの園   -可睡斎-


可睡斎 本堂

こんにちは。
今日は私にとって、とても懐かしく、そして思い出深い場所をご紹介したいと思います。
ここは、静岡県袋井市にある曹洞宗の古刹、「可睡斎」です。
山号は「萬松山(ばんしょうざん)」、寺号を「可睡斎(かすいさい)」といい、 東海道随一の禅の修行道場として知られています。
また、明治時代の神仏分離により、隣町である浜松市の「秋葉寺」から「秋葉三尺坊大権現」の御身体が還座され、火防災除すなわち火伏せのお寺として、有名になりました。


可睡斎山門
毎年12月に行われる「秋葉の火まつり」には、近隣の町から多くの方が参詣に訪れます。
ところで、なぜ私にとって懐かしい場所なのかと言うと、私にとって始めての集団旅行、つまり始めての遠足で訪れた地だったからなのであります。
そのころの私は、小さくて身体が弱く、母親同伴での遠足だったように記憶しています。
今でこそ、活発に走り廻っている私ですが、末っ子の甘えん坊で、お友達とも馴染めず母親にベッタリくっついていた弱々しい少女だったのですよ。
可睡ゆりの園


まあ、そんな話はどうでもいいでしょうが・・・(;一_一)
「可睡斎」は、花の寺としても有名で、春先には牡丹、夏には可憐なサギ草を楽しむことができます。
また、隣接の「ゆりの園」においては、6月から7月初旬にかけて3万坪の敷地に約150種類200万本のユリが咲き競い、まさに夢の世界に迷い込んだ心地にさせてくれます。




今回私が、「可睡斎」を訪れた訳は、もちろん美しいユリの花を撮るためでもありますが、ただそれだけの目的ではありませんでした。
この日私は、朝早く起きて浜松市にある両親が眠る墓に向かいました。
特別、この日に意味があった訳ではありませんが、果たせなかった母との約束をやっと守れる時期が巡ってきたのです。



母との約束、それは「来年もまた、「ゆりの園」に行こうね」という約束でした。
母が亡くなって12年、もう14年も前の約束です。
両親の墓に手を合わせ、「お母さん、お父さん、一緒にユリを見に行こうね」・・・と、いうわけで、お参りを済ますとその足で「ゆりの園」に向かいました。
なんだか話が湿っぽくなってしまうので、この辺にしますね。



えーと、では、「可睡斎」の歴史について話しましょう。
その歴史は室町時代に始まりますが、開山時の寺号は「東陽軒」(中華料理屋じゃありませんよ)でありました。
では、いつから「可睡斎」と呼ばれるようになったのでしょう?
そこには、あまり知られているエピソードがあります。
徳川家康の幼少時代の話です。



この寺の11代目の住職、仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚は、武田信玄との戦いで追われる身となった徳川家康とその父を戦乱の中から救いだし、匿ってくれたのです。
そのことに恩義を感じていた家康は、のちに浜松城主となると和尚を城に招き、もてなすのですが、この和尚、なんとその宴席でコックリコックリ居眠りをしてしまいます。


大東司

その姿を見て家康は、「和尚我を見ること愛児が如し、故に安心して眠る。我その親密の情を喜ぶ、和尚、眠るべし」と言ったそうな。
以来、 仙麟等膳和尚は「可睡和尚」と呼ばれ、お寺の名前も「東陽軒」から「可睡斎」となったそうです。
ちょっと、イイ話でしょ(^o^)

では、「可睡斎」の歴史については、このくらいにして・・・。


烏蒭沙摩明王


今回、私が「可睡斎」をテーマに選んだのは、ぜひとも皆さんに紹介したい場所があったからなのです。
それは、日本一古い水洗トイレといわれる「大東司(だいとうす)」という場所なのであります。
「大東司」って言われても、一般人にはあまり馴染みのある「単語」ではありませんよね。
「東司」とは、禅寺における七堂伽藍のひとつで便所すなわちトイレのことです。
禅寺で修行なさるお坊様には、「三黙道場」と呼ばれる修行の場所があるそうです。
そして、その場所においては一切会話をしてはならない決まりがあります。


瑞龍閣 広間


「三黙道場」ですから、無言の修行場は三か所ある訳で、ひとつは「僧堂」といわれる座禅や食事をする場所、そして「浴堂」と呼ばれる風呂場、その最後のひとつが「東司」と呼ばれる便所なのです。
その「東司」なんですけどね、なんとまあ70年前に造られたという、ここ可睡斎の「大東司」の素晴らしいこと!
当時の日本建築の粋を極めた装飾にタメ息が出ちゃうのであります。




「大東司」の真ん中には、「烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)」と呼ばれる、いわゆるトイレの神様が凛々しいお姿で立っておられます。
「烏蒭沙摩明王」は、もともと古代インドの神様で、「アグニ」と呼ばれた炎の神だったそうです。
この世の不浄の一切を焼き尽くす霊力を持った神様が、やがて仏教の世界にも取り入れられて、 「烏蒭沙摩明王」 となったわけですね。


庭園

心身を清浄に目覚めさせる徳を持ち、毎日手を合わせることによって、日々の健康を守護して下さるのだそうですよ。

見た目は、「不動明王」とそっくりなので、私にはその違いがよく分からないのですが・・・(>_<)
ところで、この可睡斎の「大東司」ですが、戦前から水洗トイレであったそうで、現在でも使われているのです。
私が感激して眺めまわし、写真を撮っている間にも、普通にお坊様が用を足しにいらっしゃるのです(~_~;)
仕方がないので、私はその度にその場を離れ、誰もいなくなるのを待ち、また戻って眺めるの繰り返し。


ゆりの園のシラユリ
なんだかやましいことをしているようで、落ち着かないのですが見学コースでもあり、扉があるわけではないので出入りは自由なのです。
しかし、男子トイレである以上、いくらオバサンの私と言えどもズズーッと奥まで入り込む勇気はありません。
入口付近で、コソコソと近寄りたくても近寄れない「烏蒭沙摩明王」を望遠レンズで狙ってみたり、さんざん怪しげな行動をしてまいりました(>_<)
いつもの事ではありますが、今日もまた個人的趣味で書きたいことばかり書いてしまいましたが、なにも「大東司」だけが、「可睡斎」の見どころではありません。

瑞龍閣と呼ばれる建物の大広間は、高い格天井と日本画家の山口玲煕氏の描かれた見事な襖絵に彩られ、京都の寺院にも劣らぬ美しさで見るものを圧倒します。
また、美しく手入れの行き届いた庭園も素晴らしく、この日私は、お庭に咲いた菖蒲の花を鑑賞しながら精進料理を頂きましたよ。

長雨や台風が続く鬱陶しい季節ではありますが、そんな季節だからこそ、貴重な晴れ間に美しい花々や美しいトイレ?!を見にでかけませんか?

「烏蒭沙摩明王」がお待ちですよ。(^o^)丿



2012年6月18日月曜日

古代伝説の息づく社の森  -熱田神宮-

熱田神宮拝殿

本日は、私の住む都、名古屋市の誇る熱田神宮をご紹介したいと思います。
と言っても、私は名古屋生まれではないので、実のところ余り詳しくはありません。
名古屋に住みながらも 熱田神宮に訪れたは3回目という訳でして、しかも20年ぶりという有り様なんです。
ですから、今日は皆さんと一緒に熱田神宮について勉強しようと思いますので 宜しくお願いします。





社殿

名古屋の人々は、赤ちゃんの初参りに始まり、七五三参り・成人式など人生の節目には熱田神宮にお参りします。

また 初詣の際は毎年230万人もの人が、参詣されるそうですよ。
私のような無精者は、近所の氏神様で済ましてしまうのですがね。
そんな私も、さすがに成人式の時と結婚が決まった年の初詣は、熱田神宮に行きましたっけ。
結婚はあえなく失敗に終わりましたが・・・(>_<)


拝殿


そんな苦い思い出の場所でもある熱田神宮なので、20年も足が遠のいてしまったのかな(~_~;)
そんな話はともかくとして、名古屋っ子は熱田神宮のことを親しみを込めて「熱田さん」と呼びます。

「熱田さん」には名物も数々あって、境内にある「宮きしめん」できしめんを食べて、お土産には「きよめ餅」を買って帰るのが定番です。


拝殿


近所には、「ひつまぶし」で有名なうなぎ料理屋さんもあるので、そちらの方が定番かもしれませんが、きしめんといえば名古屋名物。
安くて美味しいきしめんも、是非一度ご賞味頂きたいものです。
食べ物の話はさておき、本腰を入れて熱田神宮の話をしましょうね。
熱田神宮は、境内外に本宮・別宮の外43社が祀られ、その歴史は約1900年前といわれています。
1900年の歴史の始まりは、第12第景行天王の時代。


手水舎
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)亡きあと、妃である宮簀媛命(ミヤスヒメノミコト)が、「草薙の剣」を ここ熱田の地にお祀りになられたことから、その歴史が始まります。
「草薙の剣」とは、かの「日本書紀」に書かれている神話「ヤマタノオロチ伝説」に登場する剣で、その昔、須佐之男命(スサノウノミコト)が出雲の国で退治したヤマタノオロチの尻尾から出てきたという伝説の剣のことです。
正式名は「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」我が日本の誇る宝物「三種の神器」のひとつですね。
二十五丁橋(名古屋最古の石造太鼓橋)


ちなみに、あと二つ御存知ですか?
あと二つは、伊勢神宮にお祀りされている「八咫鏡(ヤタノカガミ)」と皇居に収められていると云われる「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」です。
古代において、「鏡」「玉」「剣」は、支配者の象徴だったようですね。
「天叢雲剣」の行方については諸説ありますが、現在は、この熱田神社の奥深くに「御神体」として祭られているということになってまいます。
清雪門(別名 開かずの門)


じゃあ、その剣がどんな剣なのか見てみたいと思いますよね。
しかし、現在この世の中に生きている人間の中で、誰一人として見たことのある人はいないと言われています。
この剣、実際に現存するのかどうかも諸説があり、私には分かりませんが、私的には「ある!」と信じたいのです。
なぜなら「日本書紀」には、この剣に関する逸話が書き残されているのです。


信長塀


その逸話とは、現在も熱田神宮境内に残る「清雪門(せいせつもん)」に関して語り継がれている伝説です。
この「清雪門」と名づけられた門は、何百年も閉ざされたままの「開かずの門」なのであります。
なぜ「開かずの門」なのかというと、天智天皇の時代に熱田神宮を訪れた新羅の僧が、この「清雪門」より侵入して「草薙の剣」を盗みだすという事件が起きたのです。
しかし、悪いことをしたのですから当然バチが当たりますよね。
その僧は、新羅に帰る船で嵐に遭い、悪だくみは結局失敗に終わるのです。
そして、熱田神宮に無事戻った「草薙の剣」は、二度とこのような災難に遭わぬように厳重に保管され、「清雪門」は永遠に閉ざされる事となったという伝説、ちょっと壮大な歴史ドラマの一場面を見ているようなロマンを感じませんか?


熱田神楽





歴史ある熱田神宮には、そのほかにも数多くの伝説が残っています。
真偽のほどは定かではありませんが、実に面白いと言うか興味深い三つ伝説をご紹介しましょう。


尾張新次郎太鼓


まず、一つ目は「楊貴妃」伝説です。
熱田神宮には楊貴妃の墓があったといわれる場所があるそうです。
「楊貴妃」といえば中国の唐の時代、天下無敵を誇った玄宗皇帝の寵妃ですよね。
世にいう世界3大美女のひとり、中国の楊貴妃の墓が、なぜ日本にあるのかって?
実は、楊貴妃は熱田神宮の女神様の化身っだった!?そうですよ。
玄宗皇帝の日本侵略を心配した神々が、熱田神宮の女神を玄宗皇帝のもとに送り込み、侵略を阻止したとか・・・(-_-;)


尚武祭(熱田まつり)
二つ目の伝説は「源義経、元服の地」伝説です。
時代は平安末期、ここ熱田神宮で源義経の「元服の儀」が行われたと言われているそうです。
義経は鞍馬で育ったという話が有名ですよね、これまた、なんで熱田神宮?
しかし、これには根拠があって、義経の兄である源頼朝の実母が熱田神宮の宮司の娘であったとか・・・。
でも、義経の実母じゃないし・・・(-_-;)


豊田町 まきわら神輿


三つ目の伝説は、みなさんご存知の「織田信長の戦勝祈願」伝説です。
織田信長が今川軍との戦いに際し、熱田神宮に戦勝祈願をしたところ、みごとに今川軍を撃破し、その御礼として土塀を献上したそうです。
この伝説に関しては、かなりの信憑性の高いものだと言えるでしょう。
現在も境内に立派な土壁が残されています。






さて、つらつらと熱田神宮についての安直なご紹介をしましたが、今回、私が熱田神宮を訪ねたのには訳がありまして(^_^.)
実は、熱田神宮で行われる例大祭「尚武祭」を見学するためでもありました。
お祭りウォッチャーとしては、地元名古屋の祭りも押さえとかなきゃいけませんからね。


しかし、祭りといえど、社の中で伝統に則り神官たちの荘厳な儀式が行われる例祭ですから、私のような一般人には見ることができません。
私たちの見学できるのは、一般的には「熱田まつり」と呼ばれている近郊町内の祭りの方です。
もちろん、熱田神宮の例大祭でもあるので、社の中での儀式は見られなくても神楽などの奉納神事は一部見ることができます。
昼間は、武道の奉納や「熱田神楽」「尾張新次郎太鼓」の奉納演奏なども行われます。
あちらこちらで行われるので、私は広い境内をあちらこちら見て回り、写真を撮るのに大忙し。



献灯まきわら
近郊の町からは、「子供獅子」や「まきわら神輿」も登場して、それはそれは賑やかでしたよ。
この日、熱田神宮の広い境内には多くの露店が立ち並びます。
午後3時を過ぎたころから、境内は夕刻を待ちきれない人たちでごったがえしてきました。
皆、露店を覗き込んだり、食べ歩きをしながら夕刻を待ちます
やがて、「献灯まきわら」が点灯され、いよいよクライマックスとなる花火が打ち上げられるのですが、私は、ここいらあたりで引き揚げることに・・・。
さすが都会の祭り、物凄い人出に身動きもままならない状況になってきたので、「献灯まきわら」に灯がともるのを見届け、帰路につきました。
長年、名古屋に住みながら、新興住宅地に住んでいた私には「熱田」は知らない町でした。
こんな賑やかな祭りがあったとは・・・(-_-;)

ちなみに名古屋では、この日を境に着物から浴衣に衣替えする習わしがあるそうです。
初夏の訪れを告げる「熱田まつり」、境内には浴衣美人がそぞろ歩き、祭りの華やかさを盛り上げていましたよ。

出雲大社や伊勢神宮には及ばずとも、ここ熱田神宮も数多(あまた)の神々がおわすところ、神話の故郷です。
皆さんも、名古屋にいらした時には、ぜひ、お立ち寄りくださいな。
近頃流行りのパワースポットもありますよ。
ご紹介しようかな、とも思いましたが、皆様どうぞ自分の足で探してみてくださいね(^.^)/~~~