2012年3月19日月曜日

近江八幡 左義長まつり

今回訪れたのは、湖東の町近江八幡に春を告げる左義長まつりです。
皆さん、「左義長まつり」を御存知ですか?
「左義長まつり」と呼ばれる祭りは、日本全国にありますよね。
ふつう、1月の15日前後に正月飾りなどを焼く行事、すなわち「どんど焼き」のことを「左義長」というのだそうです。
日本全国で行われる「左義長まつり」には、それぞれ個性があるようですが、ここ近江八幡の「左義長まつり」にもユニークな個性がありますよ。



では、近江八幡左義長まつりのご紹介しますね。
まずは、「だし」の紹介から。
近江八幡左義長まつりには、12台の「だし」が登場します。
左義長まつりは火祭りですから最終的には全部の「だし」を燃やしてしまうので、毎年新たに制作します。
「だし」のテーマは干支飾り、今年は辰年ですから「龍」ですね。
それぞれの地区が工夫を凝らし、「龍」をかたちどった「だし」を三ヶ月かけて作り、出来栄えを競い合うわけですが、その「だし」には、ここに近江八幡左義長まつり独特の面白さがあるのです。
それは「だし」の素材に潜んでいます。
長くひっぱりましたが、面白さの秘密は「だし飾り」がすべて食物で出来ているということなのです。

パイナップルのうろこ・棒鱈の角・氷下魚・きくらげ・昆布

穀物、あるいは海産物などで出来た「だし飾り」は、近づいて見ないとそれと気づきません。
出来栄えの素晴らしさは、ユニークというより、もはや芸術作品と呼んでもいいくらいです。
それぞれの地区がプライドと意地を賭けて制作した「だし」、必見の価値がありますよ。

祭りは、組んだ丸太の上に「だし飾り」や松明や赤紙をのせ、神輿のような形になった「だし」を若者達が担ぎ、町内を「チョウヤレ、マッセ、マッセ」の掛け声とともに練り歩きます。
その昔、織田信長も踊りだしたという逸話が残っているように、色とりどりに髪をスプレーで染め、傾(カブ)いた姿で躍動する若者が信長と重なるような気がしました。


最終日は日牟礼八幡宮に集結するのですが、その際の勇壮な「だし」のぶつけ合いも迫力があります。
私は時間の関係で、最後に火が放たれる瞬間までは見学できませんでしたが、さぞや壮観であっただろうと思います。

ではここで、近江八幡の歴史と街並みを少し紹介したいと思います。
近江八幡は水の郷、そして近江商人の町として有名な場所です。




その昔、琵琶湖を往来する船の寄港地として八幡掘を廻らした豊臣秀次は楽市楽座を設け、この地を商業都市に仕立て上げました。
しかし、秀吉の暴挙により失墜した秀次は清州に左遷され、賑わいをみせた八幡城下は一気に衰退してしまいます。
そんな中で、この地の商人達は底力を発揮したのです。
彼らは肩に天秤棒を担ぎ行商に出かけるようになり、やがて商隊を結成して全国を廻り独自の販路を開拓していきました。
これが近江商人のはじまりです。
八幡堀

やがて江戸時代中期になると幕府は、大きな財を持つ近江商人を直轄し牽制しますが、一方で通行手形などの優遇を与え共存をはかります。
この地を本拠地にして飛躍的発展をとげた近江商人は、幕府や各藩の御用商人となり莫大な富と高い教養を身につけていきます。
やがて、近江商人の名は全国に轟くようになっていったのです。

次は町並みの紹介をしましょう。
なんといっても素晴らしいのは、八幡堀を囲む情緒あふれる景観です。
掘割り沿いには古い佇まいの商家や白壁造りの土蔵が建ち並び、往時の繁栄を物語ります。
新町通りの街並み
堀割りには各商家の舟寄せとなった石組みの歩道があり、現在は観光に訪れた人たちの遊歩道として整備されています。
みなさんは気づいてないかも知れませんが、八幡堀あたりは時代劇などのロケ地として度々テレビに登場しているのですよ。
そんな趣きある八幡堀を春には桜や新緑の柳、夏には花菖蒲が彩ります。
花を愛で散策するもよし、また屋形船に揺られて巡るのも一興です。
近江八幡の見どころは、八幡堀だけではありません。
伝統的建造物の建ち並ぶ新町通りもまた、近江商人達の往時の面影を残す素晴らしい町並みです。
一般公開されている旧西川家や旧伴家では、商家としての体裁を保ちながらも高い教養と洗練された意匠が随所に見ることができます。

私は、四季を通じて美しいこの近江八幡の町が好きで度々写真などを撮りにいきます。

皆さんにも、ぜひ一度訪れてはいかがですか?


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