2014年9月19日金曜日

いにしえの廻船船主の心意気   -内海 神楽船祭り-



西端区 神楽船

こんにちは。
長の無沙汰をお許しくださいませ<(_ _)>

今年の夏は予想もしない異常気象が続き、各地に暴風雨による被害をもたらしましたが、皆様におかれましては、お変わりなく元気でお過ごしでしたでしょうか?
また、甚大な土砂災害に遭われた広島地方の皆様には、心よりお見舞い申し上げるとともに一日も早い復興をお祈りいたします。





内海海水浴場

さて、本日は、初秋の知多半島を彩る内海神楽船祭り(うつみかぐらぶねまつり)をご紹介いたします。

内海海岸(正式には千鳥ヶ浜海水浴場というそうです)といえば、この地方のマリンリゾートのメッカであり、関東でいうと江の島海岸のようなところで、真夏には多くの海水浴客で賑わいます。
シーズンが終わったこの日も、夏の陽射しが少し残る海岸には、往く夏を惜しむかのように若者や家族連れが集っていましたよ。

社務所で身支度をする若衆

ゆるやなか弓形を描く海岸線には美しい砂浜が広がり、後方にはホテルや料理旅館が立ち並んでいます。
その長い砂浜の南端あたり、リゾートマンション脇の細い坂道を上っていくと、本日の祭礼が行われる西端区の氏神様である山神社があります。
海辺の小高い丘の上にある山神社に祀られているのは、その名のとおり、山の神様である大山祇神(おおやまづみのかみ)。
あれれ? 神楽船祭りは海の祭り、海の神様ではないのは、ちょいと不思議ではありませんか?

そこで、ちょちょっとググってみたところ、大山祇神社の総本山は瀬戸内海の大三島にあり、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した村上水軍ゆかりの神社でもありました。
な~るほど、水軍の守護神とあらば、海の祭りに相応しい神様ですよね。


尾州廻船船主 内田佐七邸 南庭園

ところで、私は海の祭りとは書きましたが、内海神楽船祭りは、正確にいうと海で行われる祭りではありません。
内海川という小さな川の河口付近で行われるお祭りなのでありますが、あえて海の祭りと書いたのには訳があります。
なぜなら、このお祭りは、太平洋の荒波を枕に海運業で活躍した勇壮な男たちのお祭りだからです。
そのキーワードは、尾州廻船
では、お祭りのお話に入る前に尾州廻船について探っていきましょう。


尾州廻船の主な寄港地

そもそも、内海神楽船祭りとは江戸時代後期、太平洋沿岸の物流を担った尾州廻船 内海船の海運業盛大、航海安全を祈るために始まったお祭りです。
しかし、かつてこの地が尾州廻船という海運業の中心地であり、大きな富と繁栄をもたらした町であったことは、あまり知られていません。現在の内海海岸には、穏やかな砂浜が残るばかり。



内田佐七邸
大きな港もなく、海辺を散策しても往時の面影を見つけ出すことはできません。
しかし、海辺から離れて狭い路地を歩いてみると、そこには往時の繁栄が見てとる建物が、いくつか点在していました。

祭りを知りたいなら、まずはその町を知るべし!

この日私は、内海の町に到着すると取りあえず南知多町教育委員会が管理する文化財尾州廻船船主 内田佐七邸見学に直行しました。


北庭園の露台と竹連子壁

神楽船祭りの成り立ちを知るには、まずは尾州廻船を学ばなければならないと思ったからです。
当時の船主の暮らしを知ることは、その時代背景を知るうえで大きなヒントになるわけです。

黒板壁に囲まれた内田佐七邸は、明治2年に建てられた屋敷で、海運業の繁栄も末期の時代にあたりますが、その風格は私の想像を遥かに凌ぐ建物でありました。



日暮れを静かに待つ神楽船
門を入ると大きな広場があり、その向こう右手に蔵、左手前が主屋の入り口となっていました。
主屋の入口からは、奥にのびる広い土間になっていて、おそらく航海から戻った水夫たちの作業場でもあったことが窺えます。
しかし、凄いのは実用的な広さばかりではなく、その瀟洒な造りなのであります。
主屋が、どちらかというと実用的な造りであるのに比べ、その主屋の東側にある座敷は、北と南に優美な庭園を備えた格式ある二間続きの大広間となっています。
案内パンフレットによると、戎講(この地方では船主の組合のことを指します)の寄り合いなどに使用された広間とありますが、おそらく冠婚葬祭や賓客のもてなしにも使われたことでしょう。



櫓の後方には、美しい旗や幟が飾られます

そして主屋の奥には、別棟の二階建の隠居所、そのほかにも蔵や納戸などの建物もいくつか並びます。
そんな立派な屋敷の中でも特筆すべきは、やはり石や樹木、灯篭などが美しく配された庭園(坪庭なんてものじゃなく、かなり広いです)と格式高く、凝った造りの座敷です。
床の間、付書院、床脇飾り、また欄間などの装飾はシンプルですが、なんと!座敷の天井板は屋久杉で出来ているそうですよ。
う~ん、海運業は、かなりの財を得ることが出来たようですね。



本日のイケメンさん(^_-)-☆
内田佐七邸の隠居所には、当時の道具や資料、そして尾州廻船の模型などが展示されており、私も尾州廻船とはなんぞや?ということを学ぶことが出来ましたよ。

まあ、とってつけの知識ではありますが、お勉強してきたので少々お耳拝借。
尾州廻船 内海船とは、江戸時代後期に活躍した戎講という組合組織を持つ海運業者の総称で、最盛期には、内海とその周辺の船を加えると100嫂もの船が戎講に所属していたそうです。


手渡しされていく提灯

航海範囲は、東は江戸から西は瀬戸内海は尾道あたりまで。
主な積荷は「米」で、米船とも呼ばれていたそうです。
まずは米を積んで出掛け、あちこちの港で卸して運搬費用を稼ぎ、次はその儲けで寄港した港に集まる積荷を買い入れる。
そしてまた、その買い入れた品物を次の寄港地で売りさばきながら戻る訳です。
あちこちの寄港地で仕入れ・売却を繰り返し、いつも積荷は満杯なのですから、実に効率のよい儲け方ですよね。



提灯が取り付けられていきます
しかし、そこにはニーズに応えて確かな物を仕入れて売るという商売センスも必要であったと思うのです。
勇敢な海の男というだけでは、商売は出来ません。
上方の大商人や江戸の商人を相手にするには、知識や経験だけでなく、船主には広い視野で時代を見定める能力が最も必要であったことでしょう。
やがて、明治期になって蒸気船や鉄道の発達により尾州廻船は衰退していきますが、そんな中でも蓄えた財力で実業家に転身していった船主も大勢いたそうです。

さて、尾州廻船の成り立ちが分かったので、夕刻迫る祭りの現場に向かいましょう。
西端区の氏神様山神社から、海辺とは反対方向に狭い路地を下っていくと内海川河口に行きつきます。
そこには、本日のメインイベントである神楽船が組まれていました。


提灯の飾りつけも終盤

神楽船は、二艘の祭り舟を横に並べて連結し、その上に櫓(やぐら)を組んだもので、船の全長は約12m、組まれた櫓の広さは約四畳半といった感じです。
櫓の中央には、提灯を掲げるための長い柱がそびえ立っています。
その高さは約15m、ここに108個の提灯が掲げられるのですね。
なんだかワクワクしてきましたよ。
美しく飾られた神楽船は、夕闇迫る岸辺で静かにその時を待っているようです。


船出の準備も整い、船方さんも登場

神楽船を眺めながら、私も堤防に腰をおろしてしばしブレイクタイム。

陽は傾き、岸辺の家々に灯りが灯るころ、
三々五々集まっていらっしゃった地元のお年寄りに祭りの思い出話などを聞かせていただくことが出来たのは、非常に有意義な時間でしたよ。

そうこうしていると、やがて提灯に灯をいれる時刻が近づいてきたようです。
提灯柱の一番上に2個の大提灯が掲げられると、いよいよ神楽船祭りの開始です。



優美で勇壮な神楽船

まずは、お囃子道具と囃子方が船に乗り込み、お囃子の準備が始まります。
そして、提灯方が乗り込むと、囃子方の木遣り音頭にあわせて提灯がひとつずつ取り付けられていきます。
提灯の火は詰所で灯され、西端区の人々ひとりひとりの手渡しで、神楽船までリレーされていきます。

なんと素敵な光景でしょう!

船ばかりが主役ではなく、地区の老若男女、すべての人が参加してこその祭り!

このような小さな地区でのお祭りでは、地区の全員で盛り上げていくことが大きな意義を持ちます。
世代が変わり、住民が変わっていっても、参加することによって、伝統を守っていけるだと私は思うのです。

提灯の飾りつけも終わり、とっぷりと日が暮れると、いよいよ神楽船の出航です。



気合いの入った船方さん
「よーそろ」と、威勢のよい船方さんの掛け声が響き渡ります。
岸辺からは歓声と拍手が起こり、褌姿も凛々しい船方さんの気合も十分。

岸辺を離れた神楽船は、ゆっくりと内海橋と千歳橋の間を往復します。
その距離といえば、およそ500mしかありませんが、ゆっくりとゆっくりと進む神楽船の姿は典雅そのもの。
どことなく哀愁が漂う笛太鼓のお囃子も、夢心地に誘います。
私も、しばしカメラを持つ手を休めて、美しい伝統の祭りに酔いしれます。


提灯の灯が水面を幻想的に照らします

江戸の昔、海運業盛大・航海安全を願って裕福な船主によって始められた内海神楽船祭りは、時を経て地域の人々の強い結束と互いの幸せを願う祭りになっていました。

ゆらゆらと光の尾をひいて川面をゆく神楽船
その昔、千石船を駆って荒海に漕ぎ出していった勇壮な男たちとそれを見送った町衆。
そんなドラマのひとコマが垣間見れたような気がしたのは、私だけかしら・・・
大きな富と繁栄をもたらした時代は静かに幕を閉じたけれど、海の男の心意気は今も昔も変わらないのです。

この日も、川面に映し出される光のページェントにすっかり魅了された私の一日。
やっぱり祭りは、私に元気と活力を分けてくれます。
さあ、秋祭りの季節の開幕です!
今年は、いくつお伝えすることができるかな。
皆さんもぜひ、ご近所の秋祭り見物に出掛けてみてはいかがですか?



おまけ   内海海岸からの夕景

内海神楽船祭りの行われるのは、旧暦の8月17日に近い土曜日で、潮の関係上(干潮では船が漕ぎ出せないそうです)今年は、9月13日に行われました。
機会があれば、来年行ってみてくださいね。

内田佐七邸については→http://www.tac-net.ne.jp/~mannai/uchidake_02.html

本日も最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
ではまた、次のお祭りでお会いしましょう(^^)/





2013年10月14日月曜日

川面を照らす篝火に悠久の時を偲ぶ    -犬山市 木曽川うかい-


木曽川うかい

こんにちは。
またまた長い間のご無沙汰でございます<(_ _)>
はや10月も中盤となり、今頃なんのこっちゃでございますが、今回は夏の風物詩「木曽川うかい」を紹介させていただきます。
言い訳っぽいですが、今年の夏はかつてないほどの酷暑。
暑さに負けてモタモタゴロゴロしている間に9月が過ぎ、あっという間に10月を迎えてしまいました。
どうぞお許しくださりませ。


屋形船からの見物

更に言い訳が重なりますが、今日ご紹介する「木曽川うかい」は6月から始まり10月まで続くという長丁場、その間に書ければいいかなどと甘く考えていたのワタクシなのですが、気がつけばとうとう今年の鵜飼も10月15日にて終わりとなってしまいました。
いやはや、本当に申し訳ないことです。
と言っても私が勝手に書いているだけで、別に犬山市や鵜飼運営会社からの回し者でもないので関係ないのですが・・・(~_~;)


鵜匠さんと鵜

さて、今回ご紹介するのは、いつものお祭りではなく、季節の風物詩、伝統の「木曽川うかい」とその周辺の見どころです。
皆さんは、鵜飼漁というものを見たことはありますか?
聞いたことはあっても、実際にこの伝統漁法が残っている地域は限られていて、実際に見ることのできる機会はそんなにありませんよね。
そういう私も、今日ご紹介する犬山市の近隣に住んでいながら「いつかは観たい」と思いつつ、観る機会を持ちませんでした。
友人とも「いつか観にいきたいよね」などと話題にはのぼるものの、なまじ近いせいもあって、なかなか観に行こうともしなかったというのが正直なところです。
しかし、こんなことではいつまでたっても観られそうもありません。
そこで、思い立ったが吉日とばかりに、観覧船を運営する会社に電話で問い合わせてみると、今日は空きがあるとのこと。(木曽川うかいは、基本的に当日予約では観ることができませんが、お弁当付きのコースでなければ、空きがあればOKだそうです)
せっかくの鵜飼見物、ひとりではつまらないので強引に友人を誘って出かけることにしました。




国宝茶室「如庵」

そうと決まったら、鵜飼いの始まる時刻まで待てないせっかちな私です。
犬山に行くのであったら、以前から観たかった織田信長の実弟で茶人であった織田有楽斎(おだうらくさい)が建てた国宝茶室「如庵」を観に行こうと友人を急き立てて、午後3時に犬山に到着しました。
鵜飼い観覧の屋形船の出発時刻は午後6時50分です。
充分な時間があるので、車を乗船場の駐車場に置いて、茶室「如庵」のある有楽苑まで歩くことにしました。





苔の美しい有楽苑庭園
乗船場から有楽苑までの距離は約1㎞。
そんなに離れた距離ではないのですが、通り雨の後の犬山は猛烈な蒸し暑さ。
暑いだのなんだのとグダグダと文句並べる友人を無理やりひっぱって歩くこと20分で到着した有楽苑は、木曽川河畔に建つ名鉄犬山ホテルの敷地内にありました。
こんもりとした木々に囲まれ、ひっそりとした佇まいの庭園有楽苑は、さほど広い庭園ではありませんが、四季折々を楽しめるであろう日本古来の植物に彩られた苔の美しい日本庭園でした。

お行儀が悪いけれど、内部ちょっと覗き見

順路に従ってゆっくりと散策してゆくと、サルスベリやヤブランといった季節の花々が迎えてくれます。
枝先に小さな花を咲かせ始めた萩が風情ある表情を見せてくれたりもしましたよ。
そして、庭園のほぼ中央に国宝茶室「如庵」があります。
外からみた限りでは、そんなに侘びた佇まいでもなく、狭苦しい感じでもないことに、ちょっと驚きでしたが、小窓から覗くと中は、やはり狭いようです。



雨上がりの露に濡れた白萩の花
多くの茶室を見てきた訳ではないので、よくは分かりませんが、庵(いおり)と呼ぶには少し綺麗過ぎるような気もします。
庵と聞くと、利休の愛した“わびさび”の世界を連想しちゃうからでしょうね。
「如庵」には、武家の隠居所といった風情が感じられました。

元和4年(1618年)に建てられというこの茶室は、織田有楽斎が京都市の建仁寺の正伝院に建てた茶室を移築したものですが、京都から直接移築された訳ではなく、明治期から運命に流されるように主を変え、移築を繰り返しながら昭和47年、ここ犬山の地に来ました。


茶室に隣接する重要文化財 旧正伝院書院

織田有楽斎という人物の人となりに興味はあっても、茶室については詳しくないので、案内パンフレットから紹介させていただくと、その造りは、単層杮(こけら)葺き入母屋造り、内部は二畳半台目の向切りの茶室とのことです。
“入母屋造り杮葺き” までは分かりますが “二畳半台目の向切り” とは、なんのこっちゃわかりませんのでお許しくだされ<(_ _)>
また、壁の腰部分には当時の和紙に描かれた暦が張られていて、別名暦の席といわれているそうですよ。
これは、小窓からしっかり覗いてきたので、フムフム納得(o^-')b



木曽川夕景
「如庵(じょあん)」の名の由来は、織田有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」からきているといわれますが、という文字は、仏教的には教えに従うというような意味があります。
~の如く(ナントカのごとく)と使われるように、自然にあるいは時流に逆らうことなく身を任そうという意味もあるのではないでしょうかね。
有楽斎の生き様を追ってみると、そんな考えに至りました。
豪放な織田信長の弟として生まれ、後に家臣に等しかった豊臣秀吉に仕え、秀吉と徳川家康の間を行き来して、戦乱の世を生き抜いた織田有楽斎。



有楽苑に咲くサルスベリの花
決して悪い意味じゃないけれど、如才ない人物とは彼のような人のことを指すのじゃないでしょうか?
戦国史をひもとけば、日和見主義な卑怯者の扱いを受けてもいるようですが、それが生き残る術であった時代においては、“賢い” 選択であったのでしょう。
そんな時代背景の中で、数寄者(すきもの)として茶の湯を極め、ちゃんと長生きもして後世にその名を残す訳ですから冷静沈着な人であったと想像できますね。
千利休の門弟でありながら、猿真似に終始した大名の茶の湯とは一線を画すところも、やっぱり並みの人物ではないように思えます。



国宝 犬山城

この茶室「如庵」にしても、まるで有楽斎の生き様が乗り移ったかのような変遷に耐えて、今日に至る訳ですから、なにかそこに壮大なロマンを感じるのは私だけでしょうか?
国宝茶室「如庵」は、月1回だけ内部を特別に公開しています。
往復ハガキでの申し込みなので、ご覧になりたい方は前もって準備が必要ですね。
ちなみに特別公開の見学料金は2,300円だそうです。(普段は入場料1,000円、お抹茶500円)


屋形船から見上げる犬山城

拝観についての情報はこちら↓
http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/joan/special.php
私のように思いつきで行っちゃった方は、小窓から中を覗き込みましょう、いつも開いているとは限りませんが・・・(@ ̄ρ ̄@)
そして犬山市の最大の見どころと言えば、なんといっても国宝犬山城です。
今回は時間の都合もあり、見学することも出来なかったので割愛させていただきますが、城下町の街並みも美しく、とても活気ある良いところですよ。



屋形船から眺める木曽川夕景
犬山祭りに関しては、以前に紹介させて頂きましたが、またいつの日かお城と美しい城下町についてもご紹介できたらと思っています。

さて、この辺で鵜飼見物屋形船に乗船することにしましょう。

私が訪れた8月の後半は、まだ日が長く乗船時刻の6時50分といえば、ちょうど陽が落ちた直後あたりでした。
夕暮れの時刻から、宵の街灯りが灯る頃にゆっくりと漕ぎ出す屋形船。
それはもう筆舌には表せない美しい光景が広がります。



イケメンな鵜匠さん

河畔から見る光景とはひと味違う、川面から見上げる犬山城の雄々しさは格別です。
川面に映る街灯り、橋を行きかう車さえも日頃の喧騒を感じさせません。
舟遊びとは、こんなにも典雅なものかとしみじみとひとり悦に入る私・・・
しかし、悦に入ってばかりもいられないのがカメラマニアの性(さが)でして ( ̄◇ ̄;)


巧みに鵜を操る鵜匠さん

なんとかいい写真が撮れないものかと右を見たり左をみたり、刻々と変わる明度に四苦八苦、とても優雅とは程遠い姿での舟遊びになってしまったことは言うに及ばないでしょう(>_<)
あっ!誰か屋形船の中で、へっぴり腰で撮影している私を想像したでしょう(~_~;)

では、この辺で「木曽川うかい」の歴史と伝統をご紹介しましょう。
この地方で一番有名な鵜飼と云えば、岐阜市の「長良川鵜飼」ですが、実は「木曽川うかい」だって歴史的には負けていません。


船着き場に居たウミウ

しかし、岐阜市の長良川鵜飼の場合は6人の鵜匠が宮内庁式部職に所属、その技は親から子へ代々受け継がれていく世襲制であり、存続の心配もない国家公務員の方々。
また、宮内庁に献上するための「御料鵜飼」も年8回行われ、木曽川うかいの鵜匠さんとは違い、長良川鵜飼の鵜匠さんのほとんどは専業だそうす。
木曽川うかいの鵜匠さんは、犬山市の観光課の職員さんで地方公務員の方々。
まあ、仕方のないことですが、という点では、まさしく“別格”とされている長良川鵜飼ほどの知名度はありません。
だからと言って「木曽川うかい」が劣っている訳じゃ、決してありませんよ!
古式ゆかしい装束に身を包んだ凛々しい鵜匠さんの姿も、鵜を操る手綱さばきも、340余年の伝統を誇る素晴らしいものです。


「なか乗り」さんと「とも乗り」さん

犬山うかいの歴史は、今から約340年前に犬山城三代目城主“成瀬正親公”が御料鵜飼として始められ、鵜匠を保護したことから始まると言われています。
蛇足ですが、国宝犬山城もつい最近までは、成瀬家の個人所有のお城でしたよ(o^-')b
あわわ、また話が逸れそうなので基!
そもそも、鵜飼い漁法の歴史は古く、日本書紀にも記されている伝統の漁法です。


篝火ひとつの灯りののもとで行われる鵜飼漁

この地方の最も古い資料によると、大宝2年(702年)の各務郡中里の戸籍に「鵜養部目都良売(うかいべめづらめ)」との記述があるそうで、少なくても1300年もの長きにわたり受け継がれてきた伝統漁であったことが読み取れます。
一時は衰退したものの、明治時代になると木曽川での鵜飼い漁を復興しようという運動が始まります。
明治32年(1899年)に鵜飼鎌次郎の尽力でその伝統漁が復活、そして明治42年には観光を目的として行われるようになりました。


大活躍のウミウ

またまた蛇足ですが、愛知・岐阜の辺りには鵜飼さんという苗字の方が多いです。
それひとつをとっても、鵜飼いの歴史を感じられますよね(o^-')b

では、次は鵜飼いについてのみどころを少々。
鵜飼い漁は、すっかり陽が沈み暗くなった時刻に始まります。

(犬山では昼鵜飼いもやっていますが、やっぱり夜がお勧めです)


何本もの手縄を操る鵜匠さん

鵜舟の全長は13m、舟には鵜匠の他、舵取り役や船漕ぎ役の「なか乗り」「とも乗り」と呼ばれる人が同乗し、3人ひと組で漁を行います。
鵜を操るのは鵜匠ひとりですが、「とも乗り」や「なか乗り」の人も鮎を飲みこんだ鵜から鮎を取り出したりして漁のお手伝いをします。
なんといっても鵜飼い漁の見どころは、舟の先端に取り付けられた篝火。
暗闇の中、煌々と燃えさかる篝火に照らされて川面に浮かび上がる鵜舟、古式ゆかしい装束の鵜匠さんの素晴らしい手綱さばき。



ウミウの口から鮎を取り出します

次々と水の中に潜っては浮き出てくる海鵜(ウミウ)の姿も健気です。
一部の外国の方には鵜飼い漁が理解出来ず、動物虐待のように映るようですが、決してそんなことはありません。
通常の海鵜の寿命は4~5年だそうですが、鵜匠さんによって大事に育てられた鵜飼いの鵜は、10~20年も生きるのだそうです。
人と鵜が寝食を共にして生まれる絆なのですねd('-^o)
鵜飼漁で活躍する鵜の数は8羽・10羽・12羽と日によって違うそうですが、偶数に限られているそうです。
また、鵜匠さんの衣装は、風折烏帽子(かざおれえぼし)・木綿の漁服(りょうふく)に胸当て胴着・腰蓑(こしみの)姿、ちなみに腰蓑の藁紐の数は365本だそうです。
一年365日、毎日漁が出来ますようにという意味だそうですよ。



鵜匠さんは鵜と仲良しなのですね(^▽^)

かの俳人、松尾芭蕉の句に おもろうて やがて悲しき 鵜舟かな いう名句があります。
意味合い的には、獲った鮎を食べることが出来ない鵜が可哀想だな といった感じではありますが、私が見たこの日も、最後には鵜匠さんが頑張った鵜を労り、ご褒美の鮎をあげていました。

今年の鵜飼いも、もう終わりの季節にはなってしまいましたが、屋形船に揺られての鵜飼い見物は、340余年の時空を越えて鵜飼い見物を愛でた“殿様”気分にしてくれますよ。

私もまた、美しい日本の伝統文化に出会うことができ、楽しい一日でした。
皆さんも機会があれば、是非いつの日か見学されてはいかがですか?
今年は、美しい女性の鵜匠さんもデビューされたそうですよ(^_-)-☆

では、今日はこの辺で失礼いたします。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
また次のお祭りでお会いしましょう(^.^)/~~~

追伸:木曽川うかいのホームページはこちら↓
http://www.kisogawa-kankou.com




2013年8月17日土曜日

絢爛豪華な鯨船山車が縦横無尽に鯨を追い詰める!     -四日市市 富田の鯨船行事-




神社丸(北島組)

こんにちは。

連日猛暑の日本列島ですが、皆様はお変わりなくお過ごしですか?
私の住む名古屋では、もはや35℃越えが当たり前になってしまって、30℃と聞くとなんだか涼しい気さえしてしまいます。
毎朝見る熱中症予報では、“危険な暑さ厳重注意” とありますが、危険な暑さと言われても、ずっと家に籠ってばかりはいられず、どう注意してよいものやらですよね。


神社丸(北島組)のハザシの少年


そんな中、先日、野菜直売所のレジに並んでいたら、私の前にいらっしゃったお年寄りが、ぐらりと揺れたかと思ったら、その場に座り込んでしまいました。
あわわ!急いで店員さんを呼んだのですが、救急車が到着するまでの10分間、店員さんは右往左往するばかり。
お年寄り(おじいさん)の頭を抱えていた私は身動きが出来ず、仕方なく、あれこれ店員さんに指示。

神社丸(北島組)回転

幸いにも意識は、しっかりとしておられたので、保冷用の氷を頂き、首筋と両脇に差し入れ、体温を下げることを最優先。

店にあった冷えていないアイソトニック飲料をもらって、ゆっくりと飲んで頂きました。
そうこうしているうちに救急車が到着したので、あとは救急隊員の方におまかせしまして、私はレジで自分の買い物の清算を済まして、さっさと帰ろうとしたのですが、なぜか店員さんが追いかけてくる・・・




北島組の鯨

「身内の方ではないのですか?」
「いいえ、違いますが?」
「あのぉ~、さっきのポカリ・・・」
「えっ?アイソトニック飲料のお金を払えと?」
なんか違うような気がしますが、指示したのは私です。
ハイハイ払いますよ、128円くらいね(ーー゛)!
128円で、グズグズいうのも嫌だったので、黙って支払いましたよ。


神社丸のはざしが鯨に向かって銛を放ちます

しかし、よく考えてみると、そのまま黙って帰っていたら、私は万引き犯にされちゃう訳ですよね。
一瞬、怒りが込み上げてきたけれど、128円で人助けが出来たと思えばどうでもよくなりました。
そんなことより、想定されるこういった非常事態に対応出来ない店員さんばかりだという事が嘆かわしいじゃありませんか!
って、また関係ない話から始まっちゃいましたね(~_~;)


神社丸対鯨のぶつかり合い


さて、そんな話は置いといて。
相変わらずの猛暑日となった終戦記念日の8月15日、私は懲りもせず祭り見物に出かけました。
もちろん、熱中症になってはいけないので、水筒には韓国の友人が送ってくれた朝鮮人参エキス入り塩蜂蜜レモン水とペットボトルのお茶を1本をリュックに詰め込んで、カメラ2台を肩に出発進行!
この日の目的地は三重県の四日市市です。


手前が神社丸、奥が神徳丸鳥居を挟んでの練り合い


三重県といえば、お隣の県ではありますが、我が家からは渋滞さえなければ非常に便利な高速道路を乗り継いで30分あまりで行けてしまうのです。
盆休み期間でもあるので多少の渋滞は覚悟して出かけたのですが、なんと渋滞もなくスーイスイ。
湾岸を横ぎるその道は、大きな青空が広がっていて素晴らしい景色です。
なんとも素敵なドライブ日和。


本練りが行われる鳥出神社境内


出来ることなら運転席じゃなくて助手席に乗ってドライブしたいものですよ。
・・・ひとりゴチる私 ( ̄◇ ̄;)
ってなわけで、ドライブは約40分で終了。
とりあえず、目的地の鳥出神社の周辺に到着。
駐車場は用意されてはいないとの情報なので、大型スーパーの大駐車場に停めさせてもらって歩くことにしました。(帰りにちゃんと買い物もしましたから許してね)

神徳丸(中島組)

しかし、車を降りてナビがなくなってしまうと方向音痴の私には西も東もさっぱり分かりません。
方法はひとつ!道行く人に尋ねるしかないのです。
ぐるり見渡したところ、ゆるゆると自転車をこぐおじいさん発見!
さっそく声を掛けました。
「すいません、今日祭りの行われる神社はどこですか?」
すると、おじいさんは、「喧嘩か?鯨の方か?今日はあっちこっちの神社で祭りがあるぞ」



中島組の鯨と神徳丸
と、おっしゃるではないですか!
ああ、喧嘩祭りも今日だったっけ(^_^.)
「鯨の方の鳥出神社です」
「よし、ワシが連れてってやる!」と、ご親切にも道案内をしてくれると言うのです。
ありがたや、ありがたや、感謝感激だったのですが・・・
このおじいさん、自転車から降りてくれないのです。
いくら、ゆるゆる走行とは言え、私は小走りに付いていくしかありません。
「どっから来たんだ?」と問われても、息が切れてまともに答えられない始末の私。


神徳丸(中島組)のハザシの少年

正直、祭囃子が聞こえてきた時はホッとしましたよ、ああ近くまで来たんだなと。
幸い15分ほどで到着しましたが、あと10分走らされたらぶっ倒れていたかも(@ ̄ρ ̄@)
それでも、このご親切には感謝しなくちゃ!
息も絶え絶えに「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げると、おじいさんは爽やかに片手をあげて、またゆるゆると戻って行かれました。


神徳丸{中島組)

ところで話は変わりますが、皆さんは四日市市と聞けばどんな町を想像なさいますか?
私が子供だった頃は、光化学スモッグが漂う工業地帯、石油コンビナートの町というマイナスな印象の町でした。
現在は、工業地帯の夜景が美しい町として人気のスポットではありますが、そんな夜景の美しい海辺であっても、当時の面影はほとんど残っておらず、やぱり工業地帯のイメージだけが強くて、その昔、この町が漁業で栄えていた町であるとは、なかなか想像できませんでした。


勢い余って転覆の神徳丸?!

そんな訳で、私には、どうしてこの町に捕鯨の祭りが残っているのかイマイチ、ピンとこなかったのです。
しかし、考えてみれば恵み豊かな伊勢湾に面しているわけですから、その昔は豊かな漁場だったに違いありません。
幕末から明治にかけては、肥料などの海運基地として発展し、明治から大正時代にかけては紡績工場によって大きくなった四日市港は、やがて商工業都市として大きく変貌していったそうです。


神徳丸のハザシが放った銛は見事に鯨に命中

昭和になってからは、軍需産業発展の一翼をにない、戦後は復興の象徴ともいえる一大工業都市に変貌し続けた町なのです。
現在の風景からは想像出来なくても、江戸の時代には長閑な漁村の風景が広がっていたのでしょうね。

さて、話は鳥出神社に戻りましょう。
本日ご紹介するお祭りは、鳥出神社の鯨船行事(とりでじんじゃのくじらぶねぎょうじ)という、四日市市富田地区に伝わる伝統的なお祭りです。



神徳丸対権現丸の練り合い

一般的には富田の鯨船祭り(とみたのくじらぶねまつり)と呼ばれていて、こちらの方が馴染みやすい呼び方ですよね。
しかし、国の重要無形民俗文化財としての名称は鳥出神社の鯨船行事というのが正しいようです。
歴史や由来は後々説明する事として、まずは先ほどおじいさんに連れられてやってきた鳥出神社からの中継といきましょう。
おかげさまで無事鳥出神社に到着したのですが、神社の境内は思いのほか賑わってはいませんでした。

中島組の鯨かぶりのお兄さん

露店屋台も、わずか3軒ほど。
いつもなら、ズラリと並んでいるはずの三脚の放列などまったくありません。
本格的なカメラを携えたカメラマンもほとんどいないような・・・?

どういうことなのでしょう?
今日ご紹介するのは、国の重要無形民俗文化財ですよ。
重要無形民俗文化財のランクとしては最も高い国指定ですよ。
けれど、見まわしてみてもまばらな人垣。
この場にいらっしゃるのは近隣の方々だけの様子です。

権現丸(古川町)

この中部地方に住んでウン十年の私ですが、確かにこの祭りのうわさを耳にしたことも無く、最近まで知らなかったお祭りではありますが、・・・(^_^.)
それにしても、こんなにも観客が少ないとは少々拍子抜けの感が否めません。
前もって、だいたいの流れは勉強してきたものの、ひょっとして、ハズレ?!
つまらないのかも・・・とさえ、勘ぐってしまった私でした。


権現丸と古川町の鯨

しか~し!それはとんでもない間違いでした。
始まると同時に、私は、かつてないほど、その迫力にグイグイ惹きこまれていきましたよ。
もう、興奮です。
シャッターを押す手が止まりません。
空いているので、どの場所からも、どの角度でも自由に撮り放題。
ただ、迫力があるというだけじゃないのです!
見事なまでの気品と優雅さも兼ね備えている完成度の高さ(@_@;)


権現丸(古川町)の宮入り

筋立て(ストーリー)まで、しっかりとあるお祭りなんぞ、そうはありません!
面白くないようだったら適当なところで帰ろうなどど、少しでも侮ってしまった自分を大反省。
何度も言うようですが、国の重要無形民俗文化財が興味深くない訳がないですよね。
絢爛豪華で何とも美しい鯨船山車
その鯨船山車に乗り、美しい衣装に身を包んで采配を振るうハザシと呼ばれる少年の見事な舞い。


権現丸(古川町)のハザシの少年

鯨船山車を左右に揺らし、荒波を表現しながら勇壮に曳きまわす男達
張りぼての鯨を被り、縦横無尽に暴れまくる鯨かぶりの若者。
勇壮な太鼓の演奏に、威勢のよい掛け声、抒情豊かな船唄。
なにをとっても、文句なし。
民話に基づいて進行していくこのお祭りは、筋立てがあり、観る人の目を飽きさせるこは決してないのです。
私がこんなことを言うのも変ですが、よく出来たストーリーと舞台装置、衣装と唄声。



古川町の鯨 対 中島組の鯨

ヘタなミュージカルを遥かに凌ぐ迫力と美しさです。
左右に激しく揺れる鯨船山車で舞うハザシと呼ばれる少年は、腰持ちのおじさんにしっかりと支えられ、荒波をものともせず優雅に舞い続けます。
は海原を縦横無尽に暴れ、ときに鯨船山車に向かって突進していきます。
その舞台となる鳥出神社の境内は、水を撒いても撒いてもモウモウと土煙が舞い上がり、その迫力にいっそう拍車が掛ります。



権現丸の回転


鯨船山車の追いつ追われつの大奮闘は、1時間ほど続き、やがて、追い詰められたが海中から浮き上がった瞬間、ハザシの放った銛が見事に命中するという筋立てです。
無事、仕留めることが出来たことを共に喜び、祝いの唄が歌われ一幕の終わりです。
ここで、この祭りには豊穣を寿ぐ意味があるということが分かりますね。
そして、もうひとつの意味は、後ほど紹介する民話の中にヒントがありますよ。


権現丸(古川町)

ちなみに、この祭りに登場するクジラはセミクジラだそうです。
体長15m程で、重さ60t以上にも及ぶ大きな鯨です。
富田地区には4台の鯨船山車があるそうですが、今年の鳥出神社の宮練りには、北島組の神社丸、中島組の神徳丸、古川町の権現丸の3台が、それぞれに素晴らしい宮練りの演技を奉納されました。
本当に、どの町のどの鯨船山車も誠に美しく、素晴らしい演技でした。



櫓漕ぎの少年

これもひとえに、伝承していくことの大切さをしっかり守ってくださっている富田の鯨船祭り保存会やそれぞれの自治会、あるいは婦人会があってこその祭りと言えると思います。

では、ここでこのお祭りの基となった民話をご紹介しましょう。
簡単に説明は出来ますが、語り口調が素敵だったので、富田鯨船祭り保存会様の資料から、そのまま抜粋させて頂きましたのでご了承ください。


昔々の大昔、伊勢湾でもくじらが取れたころのことやさ。
ある日のことやった。
沖のほうで、何本も水柱がたっかぁ上がったんや。くじらが何匹も現れたんやな。
漁師たちは、網のつくろいもそこそこに、勇んで船を出したんや。
親くじらは、子くじらをかばいながら泳いでいた。
猟師たちは何時間もの追跡に、銛を打てるまで鯨に近づいていったんや。
そして長い時間まっとった。
そしたら、息を継ごうとして、くじらが大きな体を海面から突き出して現れたんや。
親鯨と子鯨やった。ほしたら、その時親鯨は、銛打ちに哀願するように言ったんや。
「私たちは、はるか紀州の海から伊勢参りにやってきました。
せめて伊勢参りがすむまで見逃してください。」
親鯨の目からは大粒の涙が光った。
しかし、銛打ちは、親鯨の背中に、一番銛を打ちこんだんや。
見る見るうちに海は真っ赤に染まった。
苦しみながら、親鯨は、それでも訴えた。
「子供だけは、助けてやってください。」
しかし、漁師たちは、子鯨共々射止めてしもたんや。 
ほしたところが、それからというものは、富田の浜では一匹の魚も網にかからん様になってしもたんや。
浜では、あの親子の鯨のたたりに違いあらへん・・とうわさしあった。
困りきった猟師たちは、親子の鯨の霊を慰めようと、伊勢参りにも行き、
もう二度と鯨は取らんと誓ったりしたんや。
ほんでやっと浜にも前のように魚が戻ってきた。

ほんでも、猟師たちは、あの勇壮な鯨取りを忘れることが出来やなんだんやな。
ほんで年に一度の夏祭りに、その勇ましかった鯨取りを、陸の上でしのぶことにしたんや。
これが富田の鯨船祭りの始まりなんや。



暴れ回る中島組の鯨


いかがですか?
とっても素朴な良いお話ですよね。
もうひとつの意味は分かりましたか?
そうです、豊かな恵みを下さった海への感謝、そして恵みを分け与えてくれた鯨に対する鎮魂なのです。
海の荒くれ漁師は、本当は心根の優しい人達だったのですね。
心が温まる話ではないですか。





北島組の鯨

ここで、またまた話はすっ飛びますが、実は私、子供の頃、捕鯨の本場和歌山県の太地町の近くの新宮市というところに父の転勤で5年ほど住んだことがありまして、案外鯨は身近だったのです。
太地町には「くじら博物館」があって、何度も見学に行った想い出があります。「くじら博物館」に展示されていた鯨の模型や、骨格標本の大きさにびっくりしたり、昔の捕鯨を再現したジオラマ展示をみて、大きな鯨に向かう当時の捕鯨船団の勇壮さに驚いたりしたものです。


射止めた鯨を祝って船尾を持ち上げる


外国の方に聞かれたら怒られそうですが、そういえば給食のメニューにも普通に鯨も出てきましたよ。
飼育されていた小さめのゴンドウグジラも可愛かったけれど、あの頃は鯨を食べてはいけないと考えてもみなかったなぁ~(^_^.)
そんな事を思い出したら、太地町には「捕鯨まつり」みたいなものがあったのかな?と気になりまして検索してみました。
「くじら祭り」なるものは見つかりましたが・・・



神徳丸(中島組)のハザシの少年


う~ん・・・(~_~;)
どうやら、伝統ある祭りではなくて、町おこし的な市民参加のお祭りのようでした。

こういうところが面白いですよね。
ありそうなところに祭りはなくて、ありそうもないようなところに残っている伝統行事。
しかも、陸の上で行われるってのが、なんとも楽しいと思いませんか?

神徳丸

話がどんどんそれていきそうなので、軌道修正しま~す。
では、このお祭りの歴史を少しだけお話して終わりにしたいと思います。
富田の鯨船祭りの起源は、はっきりとは分かっていないそうですが、北島組の神社丸の収納箱には嘉永6年(1853年)という年号の記載や、中島組の神徳丸の解体修理の折にみつかった艫の装飾金具には、文久4年(1864年)の年号が見つかったそうです。
約150年以上の歴史は間違いなくあるということですね。



神徳丸

また、鳥出神社には、江戸時代の御座船の模型が奉納されているそうです。
その御座船というのは、天皇や公家、将軍や大名といった貴人が乗るための豪華船の事でありまして、なんと御座船の模型といわれるモノは、鯨船山車と瓜二つなのだそうです。
その事実から推察したところ、漁村に伝わる漁師の民話とは別に、鯨船祭りは、お殿様の酔狂、あるいは、そこから発生した儀礼的な行事が祭りに変化していったのかもしれませんね。


北島組の青年

そうであれば、あの絢爛豪華な船山車や少年たちの雅やかな衣装にも納得がいきます。
それにしても、雅と勇壮、柔と剛が見事にマッチングしたお祭りです。
いままで私が、ご紹介してきたお祭りに比べると決して歴史は深い方ではないようですが、重要無形民俗文化財としての風格はどの祭りにも後れをとっていませんでしたよ。




富田の鯨船祭りは、天下の勇祭といわれているそうです。
私も “天下の奇祭” と呼ばれる祭りは各地でたくさん観てきましたが、天下の勇祭と称する祭りは、あまり聞いたことがありません。
しかし、その名称に恥じぬ勇壮で優雅な素晴らしい祭りでした。

現在でも年に1~2度、伊勢湾に迷いこんだ鯨の話がニュースで取沙汰されます。
これからの私は、そんなとき必ず、この天下の勇祭、富田の鯨船祭りを思い出すでしょう。

また、日本の素晴らしい伝統文化に出会えたことに感謝です。
そして、よそ者の私にまで少し塩味の冷たいお水をふるまって下さった中島組のご婦人の皆さん、そのお心使いが本当に嬉しかったです、ありがとうございました<(_ _)>

では、今日はこの辺で失礼いたします。
今回も最後まで読んで下さってありがとうございました。
また、次のお祭りでお会いしましょう(^.^)/~~~