2012年10月11日木曜日

例大祭を彩る「祭礼能」    -富永神社 新城市-

能「半蔀」

こんにちは。
今年の秋は、超スローペースでやってきましたね。
私の住む中部地方では10月だというのに、未だ気温が30℃という夏日があったりします。
「三寒四温」とは冬から春に向かう気候のことを言いますが、今年の夏から秋への移行は、さながら「四温一寒」といった次第で衣替えも儘なりません。
こんな調子で、いつになったら秋らしい秋が来るのかしら?
などと愚痴ったところで仕方ありませんが、それでも真っ赤な彼岸花が咲き乱れ、夕刻になれば涼やかな風にススキの穂が揺れる様をみれば日本の秋がそこにあります。
そんな秋の夜長をみなさんはどうお過ごしですか?

さて、今日は「芸術の秋」にふさわしい日本が誇る伝統芸能であり、且つ舞台芸術でもある「能楽」をご紹介しましょう。
と言っても、“能楽堂”で行われるような人間国宝の舞台を鑑賞に行ったわけではありません。


狂言「蟹山伏」


ビンボーな私としては、高額なチケットは買えないし・・・(-_-;)
しかし、この季節、探せば無料で見られる「能」の鑑賞会がけっこうあるのですよ。
「能」や「狂言」は高尚で小難しいと考えていらっしゃる方も多いかと思いますが、みなさんが「能」や「狂言」に縁遠い理由のひとつに、“チケットが高額すぎる”という理由はありませんか?
どうです?
無料だったら観てみたいと思いませんか?
この季節になぜ無料の鑑賞会が多いのかというと、それは「名月」にちなんで行われる特設された場所での「薪能」が多いからです。

私は先日、「薪能」を鑑賞すべく三重県伊賀市まで遠征した訳ですが、この日は雨によりあえなく中止(>_<)


能「半蔀」

この日の公演は近所の小学校の体育館で行われることになったのですが、総合芸術として篝火や舞台もない「薪能」では・・・ねぇ。
期待して行った私には落胆が大きく、もはや気力も無くし観ることもなくすごすごと退散となりました。
そんな調子で、今年の秋に「能」を鑑賞するのは諦めるしかないのかと思ったのですが・・・。
ところがところが!チャンスはありましたよ(^o^)/
しかも歴史ある能舞台を有する「富永神社」での“祭礼能”です。
「富永神社」は愛知県新城市の市街地にある神社ですが、こんもりとした木々に囲まれた静かで趣のある神社です。


能「半蔀」

「富永神社例大祭」の催しのひとつである「祭礼能」は、この日から3日間にわたって行われる祭りの序章といえるものらしいのです。
祭りの案内によると、新城「富永神社例大祭」の見どころは豊富で、山車巡行や笹踊り、手筒花火など盛りだくさんだそうです。
しかし、3日間毎日通ってその全部を見るわけにもいきません。
今日は私の独断と好みで、「祭礼能」のみのご紹介とさせていただきます。

随分と前置きが長くなってしまいました。
では、この日の様子を紹介しましょうね。
実はこの日、私は朝早くから母の13回忌法要のため浜松にある菩提寺に向かったわけで、「富永神社例大祭」を見るために出かけて行ったわけではありませんでした。

法要といっても大それたものではなく、遠方の姉や姪たちの都合もつかないので私ひとりでの法事です。
卒塔婆供養のみの、いつもの墓参りといささかも変わらぬものですが、ご先祖様に日頃の不信心を詫び、亡き父や母とゆっくりと語らう時間を持ちました。


狂言「花折」

いつもであれば親戚宅などに挨拶に伺うのですが、私には今ちょっとした事情(現在失業中)がありまして、アレコレ尋ねられることから逃げたい気持ちもありまして・・・(-_-;)
偶然というか必然というか前日に知った情報で「富永神社祭礼能」を知った私は、寄り道をして帰ることにしたのです。
のどかな風景が続く道を走り、富永神社に到着したのは5時頃でした。



狂言「盆山」
秋の宵はつるべ落とし、陽は西に傾き夕闇迫る頃、新城の町に入ると何処からともなく祭囃子が聴こえてきました。
この日の行事は各町内だけの催しと「祭礼能」で、そのほかの行事は明日からとなるそうなのですけど。
車を降りて神社まで少しの距離を散策してみましたが、家並みには祭り提灯が飾られていましたが街中はさして賑やかではありません。
露店らしきテントも立ち並んでいるのですが、何処も営業していません。
あれれ?間違っちゃたのかしら?
いえいえ、神社に到着したころにはすでに舞台は整い「仕舞の奉納」が始まっていました。
能舞台の前には観覧用の椅子も並べられていますが、半分にも満たない人々がチラホラ座っているだけです。


狂言「蟹山伏」

えっ・・・そんなもんなの?
いつもの光景、カメラに三脚の放列もありません。
少々気が抜けた感じはしたものの、空いていた最前列の椅子に着席。
しばらくは、こういっては失礼ですが少々退屈な「仕舞」をなんとなくボーっと眺めていました。
相変わらず、観客席は閑散としたまま・・・。




狂言「蟹山伏」
そんな中でも、子供による狂言「盆山」が始まると、なかなかに興味深く、面白くなってきましたよ。
狂言独特の言い回し、コミカルな動作、子供と言えども昨日今日のにわか仕込みの芸ではないことがすぐに感じ取れました。
しかし驚いたことに狂言の上演中にもかかわらず、富永神社にはゾクゾクと法被をきた町衆が入れ替わり立ち代わり来ては、ガラガラと鈴を鳴らしてパンパンと大きな拍手をして、お参りだけしてそのまま帰って行くではないですか(@_@;)



狂言「花折」

見る見ないは自由ですけど、平気で大きな音をたてるってのはどうなの???
私は関係者じゃないし文句をいう筋合いでもないでしょうが・・・。
まぁ、気を取り直してっと。

続いての大人による狂言「蟹山伏」、とても楽しい狂言です。
登場人物のキャラクターが明確で理解しやすく、見ている誰もが声を出して笑ってしまいます。
「やるまいぞ、やるまいぞ」の声とともに“橋掛り”(舞台へとつながる長い廊下部分のこと)にはけていく姿の滑稽さがなんともいえません。
すっかり楽しくなったところで、1時間の休憩となりました。
「能」は、このあと行われる予定とのことなので、少し腹ごしらえのためにコンビニでおにぎりを買って戻ってみると見物客は少し増えていましたが、まだまだ観客席には余裕があります。
おにぎり食べながら周囲の方々の会話に耳を澄ませていると、どうやら観客は出演者の親族ばかりのようで、とってもローカルなお話が聴こえてくるばかり。
周りを見渡しても、よそ者は私ひとりみたいです(^_^.)



能「半蔀」
どおりで、前日に新城市役所の観光課に「祭礼能」の時間を尋ねる電話をしたときも「さあ、よく分かりません」みたいな気のない返事でしたもの・・・。
まあ、そんなこんなですけど、いよいよ「能」の始まりとなりました。
演目は、「半蔀(はしとみ)」です。
この演目は「源氏物語・夕顔」にちなんだ作品です。
ストーリーについて簡単に説明しますね。
夏の終わり修行を終えた僧が歩いていると、1本の花を持った美しい女が現れます。
僧が、ひときわ美しく可憐なその花の名は何か?と尋ねると、女は夕顔の花であると告げるのでした。
僧が女の名を尋ねると、その女は名乗らなくともそのうちにわかるだろう、私はこの花の陰からきた者であり五条あたりに住んでいる、と言い残して花の中に消えてしまいます。
(ここで、場面はかわります)
里の者から光源氏と夕顔の君の恋物語を聞いた僧は、先刻の言葉を頼りに五条あたりを訪ねます。
そこには、昔のままの佇まいで半蔀に夕顔が咲く寂しげな家がありました。


能「半蔀」

僧が菩提を弔おうとすると、半蔀を上げて夕顔の霊が現れます。
夕顔の霊は光源氏との恋の思い出を語り、舞を舞い夜明けとともに消えていきます。
しかし、そのすべては僧の夢のうちの出来事であったのです。
短い恋、花の精のように儚く逝った夕顔を幻想的に描いた話です。
いやぁ、これは素晴らしかった!
鳥肌が立つくらい感激しましたよ。



能「高砂」
「能」について詳しいわけでもない私ですが、舞台芸術としての醍醐味をあますことなく堪能させていただきました。
舞いはもちろんの事、語り、大鼓・小鼓・横笛・地謡、能面、衣装、すべてにおいて日本という国の究極の美を感じました。
このあとも、狂言{花折」、能「高砂」と続きますが全部は書けないので、この辺までとしておきますが、どれも素晴らしいのひと言です。
観客も少なく、携帯電話は鳴るし、おしゃべりは聞こえるし、おまけにフラッシュ撮影までありの不作法極まりない観客だらけという点においては、納得しかねますけどね(ーー゛)

実のところ、会場の様子から察して最初から期待はしていませんでした。
たぶん、素人芸に「毛が生えた」程度のものであろうと侮っていたのも間違いありません(-_-;)


富永神社「能楽殿」

しかし、観ているうちにそんなことも忘れてしまうほど、見入ってしまっている自分がいました。
「新城能楽社」のみなさん、申し訳ありません。
素晴らしいです!
素人の余興芸であろうなどと侮った私を許してくだされ(-_-;)
侮った私も悪いけど、せっかくの「祭礼能」なのに観る人、取り巻く環境が酷すぎるのです。
私は新城の人間ではありませんが、ひとこと言わせていただきます。

何やってんだ!新城市役所!


上演最中に打ち上げ花火を上げるとは、どういうこっちゃ!
   富永神社「能楽殿 橋掛り
フラッシュ撮影自由とは、どういうこっちゃ!
携帯電話で話をしている人に注意もしないとはどういうこっちゃ!
いくらなんでも酷すぎます。
これはもう「祭礼能」に対しての冒涜としか言いようがありません。
実にもったいないです。
これほどの芸術に誰も振り向かないとは・・・。
申し訳ありません・・・つい興奮してしまいました(-_-;)
しかし、ここで声を大にして言わなければいけないことは、先ほど、氏子たちによる奉納と書きましたが、決して素人芸ではないということなのです。


能「半蔀」

「新城能楽社」によって守られてきた“新城能楽”は、ただ「富永神社の祭礼奉納」の保存・継承といったものに留まることなく、現在に至るまで能楽「喜多流」の講師による指導を請け、稽古を積み重ねた努力の賜物であり、その完成度の高さは大きな「能楽堂」で行われる公演になんら後れをとるものではありませんでした。
この素晴らしい格式と伝統を持つ「祭礼能」が、あんな扱いをされるなんてあり得ません。

私には到底理解不能です。
能「高砂」


怒ってばかりではしょうがないので、ここでいつものように、この神社とこの祭礼について少しだけ解説をしておきましょう。
ここ「富永神社」の創建は、慶長8年(1603年)といいますから400年以上の歴史があるのですね。
「富永神社」での奉納神事が行われるようになったのは、元文元年(1736年)だそうで、新城菅沼家三代目城主定用(さだもち)公の家督相続を祝って、町民が天王社(現在の富永神社)祭礼時に社前で舞囃子を奉納したのが始まりだそうです。
やがて舞囃子は「喜多流」を源流とした能楽に確立され、毎年「富永神社大祭」に氏子たちにより綿々と受け継がれ、社前で「能」を奉納するようになったそうです。



能「半蔀」

いろいろな社会情勢で一時中断の時期もあったそうですが、その他の祭礼が行われない年であっても「祭礼能」だけは奉納し続けられ、現在に至るまで276年の歴史を誇るに至ったのです。
現在ある能舞台は文政9年(1826年)に再建されたものですが、それでも186年の歴史を有するわけです。
それ以前の能舞台に関しては、あまり定かではないのですが、屋根もない掛小屋から始まり、やがて組立式の舞台に、そして格式ある能舞台に変化していったそうです。

能「高砂」

これほどまでに伝統がある「祭礼能」なのに悲しくなるほどの現状・・・。
現在は「祭礼能」より、ほかの祭事の方が中心となっている「富永神社例大祭」
賑やかに盛り上がる山車や花火も確かに楽しいでしょう。
時代の波と言ってしまえばそれまでです。
祭り好きな私としても山車や花火が大好きです。
しかし、このような素晴らしい「能舞台」を、このように素晴らしい「能楽」を、もっともっと多くの人に知ってもらう努力も必要ではないでしょうか。

余計なお世話でしょうか?
申し訳ありません<(_ _)>
普通にご紹介するつもりが長々と文句ばかり書き連ねてしまいました。

今回は、伝統芸能を守るということの難しさをあらためて考えさせられた一日でした。
では、今日はこの辺で失礼いたします。
今日も最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました。

では、また次のお祭りでお会いしましょう(^o^)/


2012年9月25日火曜日

火の粉飛び散る幻想の一夜    -知立 秋葉まつり-


こんにちは。
今年の夏は長かったけれど、お彼岸を迎えて急に朝夕の肌寒さが身に沁みる季節になりましたね。
そんな彼岸の日曜日の朝、カーテンを開けて私は少々ガッカリです。
薄暗い空、シトシトそぼ降る雨。
「あぁ、雨なんだぁ~」
この日は、愉しみにしていた「知立秋葉まつり」を見にいく予定だったのです。
仕方ないね(T_T)
怠け者の習性で、ついもう一度布団に潜り込もうとしたのですが、そんなことではいけません(ー_ー)!!

お彼岸なんですから、やらなきゃいけないことが!


気をとりなおして、お仏壇にお供えする陰膳を作り始めました。
前日に買っておいた零余子(むかご)の御飯を炊いて、季節のお野菜で なんとか三品の精進料理を作り、お仏壇に手を合わせ、「来月は会いに行くからね」と父や母にお墓参りに行けないことの罪滅ぼし。
来月は母の13回忌、浜松にあるお墓にはなかなか行けないのが実情なんです(-_-;)
そんなこんなで、日常の雑事を終えたのが午後2時。



国指定重要文化財の多宝塔

空はすっかり晴れ上がり、気持ちのいい秋晴れとなっていました。
一旦は諦めた「知立秋葉まつり」も、夕方に行われる「手筒花火」には間に合いそうです。
そうとなったら急転直下、カメラ担いで出動です!
何事もダラダラの私ですが、祭りとなったら行動は素早いのです(^O^)/
さっそく車を駈って知立へGO!

「秋葉まつり」の行われる知立神社は、5月の「山車祭り」にも訪れた場所ですから、迷うことはありません。
なんなく裏道を走り抜け1時間で到着。
車を駐車場に入れ、カメラを担いで歩き出すと威勢のよい若衆の掛け声が聞こえてきました。



知立名物「大あんまき」

見れば、長持ちのようなものを担いだ若衆が練り歩いています。
さっそくカメラを取り出したのですが間に合わず・・・
その場所が休憩所だったようで、そこであえなく散会(>_<)

まぁ、歩いていれば そのうちどこかでまた出会えるでしょう、などと考えながら歩いているうちに知立神社に到着しました。
到着した知立神社の境内には綱が張られ、その周りにはあちこちに三脚が立てっいます。
もはやカメラマンの場所取り合戦が始まっていたのです。


三脚のまわりには誰もいないのに・・・そんなのアリなのぉ~
いつも三脚を持ち歩かない私としては、ここが思案のしどころです。
え~、まだ若衆の練り歩きも撮りたいのに・・・
ここで待機して「手筒花火」一本に絞るか、境内を出て「練り歩き」を捉えるか、散々悩みましたが ここは「手筒花火」一本に懸けることにして、人がいないことをいいことに三脚の乱立を掻き分け、隙間を見つけ出しポジション確保(*^^)v
だって、三脚だけで場所取りしてる人だってズルいでしょ。
でも、後から来た私の方がズルいのかな・・・アハハ(~_~;)
そこは愛嬌で誤魔化すのも得意技なんで、許してねぇ~と。

さて、注目の「手筒花火」を待つ間に、いつもの簡単な解説といきましょう。
「秋葉まつり」といえば、当然のごとく “火祭り” を連想される方も多いでしょう。
「秋葉社」といえば、“火伏” の神様をお祀りしている訳ですからね。
ここ「知立神社」にも、あまり大きくはありませんが、宝暦4年(1745年)に遠州の秋葉神社から勧請された「秋葉社」が末社としてあります。

「秋葉神社」の名を持つ神社は、日本各地に約400社あるといわれていますが、ここ「知立神社」のように末社として祀られている神社などを含めると3,000社を超えるといわれています。
その全部で “火祭り” 行事が行われているのかどうかは分かりませんが、それぞれの地方に独特の “火祭り” 行事が伝統として残っていますよね。

今回の「手筒花火」も 、伝統の “火祭り” 行事といえるでしょう。
「手筒花火」の起源は、鉄砲伝来により火薬の製造が盛んになった頃からだといわれています。



江戸時代の始めに徳川家康が江戸城内で花火の見物をしたとの記録が始まりですから、その頃の花火が、おそらく「手筒花火」だったのであろうと思われます。
そういった事情で、徳川の御膝元である三河地方や遠州地方では、「手筒花火」が盛んになっていったのですね。




それがこの知立では、いつしか「秋葉社」の “火祭り” となり、奉納行事としての「手筒花火」に結びついていったようです。
この時期、私の住む名古屋周辺では各地で「手筒花火」を見ることができます。
そのすべてが、“祭り” の奉納行事ではありませんが、受け継がれていくべき「伝統の技」であることは間違いありません。

「知立神社」の「手筒花火」に関しての歴史は、そんなに古いものではありません。
明治の後期に始まったようですが、華やかな尺玉の流行によって一時期は廃れた状態になっていたようです。
いつの世にも流行には、逆らえませんよね。

規模としても小さい部類で、豊橋・蒲郡、あるいは湖西市・浜松市で行われる「手筒花火」に比べればこじんまりとした小さい「手筒」だそうですが、はじめて見る私にはド迫力で迫ってきましたよ。




そして.「手筒花火」の最大の特徴は、花火職人によって作られ、花火師によって打ち上げられる尺玉や仕掛け花火と違って、すべて自分たちの手によって行われるということです。
山に入り竹を切り、火薬を調合して詰め、縄を巻きつけ完成させる一切の作業を自分たちだけで行うのです。



ここに、私の愛して止まない「伝統と心意気」があるように思えるのです!

では、話はまた現場に戻しましょう。
5時を過ぎる頃、境内に「5時半から玉箱(長持ち)の宮入りが始まります」とのアナウスが響くとカメラマンや見物客がぞくぞくと集まってきました。
戻ってきた三脚のオジサン達の「なんだコイツ」という視線をサラッとかわして、ちゃっかりポジション取りをしていた私はワクワクドキドキです。
しかし、いつものごとく待てど暮らせど お目当てはやって来ないのです。
やって来たのは、辺りがすっかり暗くなった6時過ぎ・・・。
三脚を持って来ていない私には宮入り写真は、かなりの厳しさ(>_<)


三脚が必要なのは分かっちゃいるのですが、大勢の人がいるところに三脚を立てるのは、どうしても自分のポリシーに反するのです。
威勢よく、玉箱(長持ち)を担ぎながら練り歩く若衆を望遠で狙ったものの、結果は見事惨敗・・・(-_-;)
まぁ、いいさ、花火はしっかり撮ってやる!
なんてほざいてみたものの、実は花火写真を撮ったのは、いままでわずか2回のみ。
しかも、ほとんど失敗。
それでも伝えたい一心のトライ根性を褒めてくだされ。




市内6町(宝町・山町・山屋敷町・中新町・本町・西町)の宮入りが終わると、いよいよ「手筒花火」の奉納となります。
やがて、周囲の明かりは消され、 綱で仕切られた境内中央は暗闇に・・・。
入場口に控えた若衆の横顔は真剣そのもの。
掛け声も威勢よく中央に進み出た若衆は、その両手に手筒を握り円陣を組みます。
点火されると同時に火の粉が飛び散り、その火の粉はやがて7mにも及びます。
「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声の響く中、火の粉を浴びた若衆の姿が神々しい光に包まれます。
なんと美しいのだろう!
声も出ないくらいの感動です!
私の想像を超えたド迫力(@_@;)
火の粉を浴びる男の姿は勇壮と表現するより、むしろ悲壮と言っていいくらい熱いのだろうなぁ~
もう、見惚れてしまって口をアングリ状態の私。


しかし、そんなこともしてられないのが私の使命。
はたして撮れているのかどうかもわからないけど、夢中でシャッターを切るばかり。
もう、こうなったら「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式でいくしかないのです。
やたら、露出を変えての乱れ撮り。
暗闇の中では、カメラ操作すら難しいのであります。
花火のシャッターチャンスは短く、モタモタしてる暇もないのです。
となりのオジサンのカメラから連写の音が聞こえてくるけど、自信のない私には連写なんてとても無理だし・・・ えーい、儘よ。
そんなこんなの緊張の2時間、精も根も尽き果てました(-_-;)


それでも、腹ペコでヨレヨレの帰り道、見つけたラーメン屋でひとりラーメンをすすりながら、写真はダメでも今日の感動だけは絶対伝えようと強く決心したのでした。
やっとの思いで帰り着き、疲れていたけどその日の成果を見てみると・・・。
ヤッタァ!自分でも意外なほど上手く撮れてるじゃん(@_@;)
これも朝早く起きて、お仏壇に手を合わせたご利益かな?なんてね(^o^)



夏の夜空を彩る尺玉や大仕掛けのナイヤガラも素敵です。
「玉や!」「鍵や!」の掛け声も情緒を誘いますよね。
しかし、歴史と伝統の「手筒花火」も壮観ですよ。
「手筒花火」 の主役は、花火そのものではなく、火の粉を浴びて立ち続ける日本男児!

草食男子とか言われている昨今ですが、日本の男は まだまだ捨てたものじゃありませんぞ!
イヨッ、日本男児は、カッコいいぜ!

みなさんも機会があったら、ぜひ一度見に行ってくださいね。
今日も最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
では、また次のお祭りでお会いしましょう(^o^)/




2012年9月11日火曜日

豊穣を寿ぐ伝統の踊り -寒水の掛踊 郡上市明宝寒水-


こんにちは。
私の住む中部地方では、まだまだ30℃を超える暑い日が続いておりますが、朝夕は涼風を感じられる9月となりましたね。
いよいよ秋祭りの季節到来です。
今年はどんな祭りに出会えるかな~っと、日々検索の私ですが、見てきたからと言って全部書いているわけではありませんよ。





中には、はるばる出かけて行っても書きたくなるような感想も持てないような残念な祭りもあるので、慎重にリサーチしなくてはいけません(ー_ー)b


さて、そんな中でも伝統芸能ウォッチャーの私としては、どうしても見逃せない伝統行事を追い求めて、今回もいつものように車をかっ飛ばし行ってきましたよ。
本日ご紹介するのは、「寒水の掛踊(かんすいのかけおどり)」という郷土の伝統行事です。
この伝統行事が行われる場所は、岐阜県郡上市明宝寒水という地域で、郡上市街から40分ほど山に入った静かな山村です。



2004年に郡上市に統合されましたが、以前は郡上郡明宝村寒水と呼ばれていた小さな集落です。
郡上といえば、何といっても「郡上おどり」が有名ですが、ここで行われる「寒水の掛踊」とは、まったく別物の伝統行事で地元の鎮守“寒水白山神社”に奉納される伝統祭祀です。
あえて “祭り” とは呼びませんが、“祭り” に近い行事といってよいでしょう。
その歴史は古く、岐阜県の重要無形民俗文化財に指定されています。
この祭事も、やはりはっきりとした起源については不明なのですが、享保17年(1732年)の紙幟が現存していることや、安永元年(1772年)の奉行所の記録に“祭行列”と記されていることから、少なくとも240年以上の歴史があると思われます。


まあ、歴史はさておき、とにかく愉快なこの祭事の実況中継といきましょう。
私がこの日、車をかっ飛ばし辿り着いた時刻は12時を少し回った頃、少し出遅れたので祭事はもう始まっていました。
山道沿いにある一軒の家の庭先で、なんとも面白い扮装の一団の奉納舞が行われていました。

一目見た瞬間から、私はゾクゾクするほど嬉しくなって、思わず「ヨッシャー!」と叫びたいくらいほど興奮しちゃいましたよ。


しかし、いつものごとく大勢のカメラマンに占拠された場所にはつけいる隙もなく、カメラマンの隙間から眺めることに終始しました。
すると、またまた地元のおばあちゃんと仲良しになれましたよ。
「どこから、来たかね?」
「はい、名古屋から」
「そりゃご苦労なこったね、ひとりで来なさったか?」

「はい」
「写真を撮るのかね?」
「はい」
「ここでは人が多くて無理だけんが、神社まで行列していくで道で待っとりゃええよ」

「ありがとうございます」
ありがたい情報をいただいた私と、その会話に聞き耳を立てていた私同様  “つまはじき” になっていたカメラマン数人が移動を始めると、なんだか大勢のカメラマンもゾロゾロ動き始めました。
歩いていると、毎年写真を撮りに来るという脚立持参のカメラおじさんとも仲よくなり、いろいろ教えていただくこともできました。

そんなこんなで30分程待っていると、山道を下ってくる行列が見え始めました。
その行列の、まるでタイムトリップしたような なんとも懐かしい光景とお囃子が心に響きます。


たわわに実る田んぼの稲穂が黄金に輝き、コスモスが風に揺れ、これぞ里山だ!日本の原風景だ!と夢見心地の私の横で、「ガードレールさえなきゃねぇ」と誰かがポツリ・・・。

そりゃそうだけど仕方ないよね(~_~;)

では、この辺で「寒水の掛踊」の解説をかいつまんでお話しましょう。
「寒水の掛踊」 は、先ほど地元の “白山神社” の奉納祭祀である紹介しましたが、この “白山神社” には、宮司がいません。
したがって、やはり祭祀というより、祭事、つまり祭りという解釈でよいのでしょう。
宮守りは1年交代で集落の人たちの中から選ばれるそうです。

地元住民がしっかり守ってきた神社なんですね。


この祭事においても、毎年お盆が過ぎると住民総出で役柄を決め、練習が開始されるそうです。
といっても、この祭事に参加するのは男子だけ。
130人人にも及ぶ行列ですから、集落の男子全員参加は間違いないところでしょう。
今年初めて稚児に女児が参加したそうですが、これも過疎化のせいなのか、女性の進出の兆しなのかは私には分かりません。

その長い行列には、それぞれ役柄があり、参加するひとは「役者」と呼ばれるそうです。


お芝居をする訳でもないのですけれど、その扮装たるやまさしく「役者」さんと呼んで間違いなし!
とっても愉快なのです。

その役者さんをご紹介すると、まずは露払いに始まり、祢宜・鬼面をつけた悪魔払い・薙刀振り・ささら摺り・田打ち・大黒様・奴・花笠・おかめ・合傘持ち・笛吹き・太鼓打ち・鉦打ち・地歌方・幟持ち・世話人といった大編成。


まあ、豪華出演者勢ぞろいってところでしょうかね。
 “掛け踊り” といわれる所以は、明治の末ごろまで隣村であった母袋村から
峠を越えて声自慢の人たちがやって来て、踊りの合いの手に掛け合いの声を張り上げたことから “掛踊” といわれるようになったそうです。
現在は音頭取りの発した掛け声に地歌方が受けて返す形で歌われるそうですが、その掛け声がまた良い声で、民謡などほとんど分からない私でも聞き惚れてしまいました。

さて、この長い行列はちょっとした休憩を挿み、やがて “白山神社” へと向かい境内での奉納舞いが始まります。




奉納舞いは、役者たちが車座になった真ん中で “シナイ” という竹飾り(高さ3m重さ5㎏)をつけた4人の青年を中心に舞い踊られます。
 “シナイ” については、今年の2月に紹介した岐阜県揖斐川町の「谷汲踊」で紹介したものと同様で、少しだけ小型で軽量な感じかな。
4人のうち3人が太鼓、ひとりが鉦を打ち鳴らしながら、背中の “シナイ” を激しく地面を払うようにして勇壮に舞うなか、鬼や大黒様がちょろちょろとチョッカイを出しにきたりする場面もあり、とても愉快です。



周囲の役者さんたちも“シナイ”の青年たちを取り囲むようにしてグルグルと回りながら踊ります。
その手には作り物の鋤や鎌が握られ、この踊りが “五穀豊穣” を寿ぐ祭事であることを物語っていましたよ。

山間の小さな集落で、村人総出で天の恵みを祝い感謝する祭事。
この日も素晴らしい伝統に出会えました。


あいにくの小雨により早めの退散となりましたが、私にとってこの上ない充実した1日となりました。
美しい日本、美しい伝統、またひとつ宝物を見つけましたよ。
この祭事は、毎年9月の第2土曜・日曜に行われます。
みなさんも来年は、お出かけになられてはいかがですか?
本日も最後までお付き合い下さってありがとうございました。
では、次の秋祭りでまたお会いしましょう(^o^)/






2012年8月17日金曜日

山村に受け継がれた念仏おどり -大海の放下-

放下おどり

こんにちは。
盆休みのお疲れを引きずったまま、昨日から出勤という方も多いかと思います。
土曜日からの5連休ということで、海外旅行や家族旅行を楽しんだ方も多いことでしょう。
しかし、大半の方はお盆をご実家で過ごされたのではないでしょうか?
まあ、自分の住んでいるところが実家だという人も少なくないでしょうけど・・・(-_-;)

ご実家が遠方であるという方々にとっては渋滞や混雑の御苦労も伴いますが、懐かしい顏、懐かしい風景が待っていてくれたことでしょう。
なかには新しい家族が増えた方、また、家族を失われ寂しく想われた方もいらっしゃったかも知れません。
昔から「お盆」とは、家族が揃って御先祖様に感謝し、お迎えする日本の“慣習”です。
今日は、その日本の良き習わしである “お盆の行事” をご紹介したいと思います。
“お盆の行事” といっても地方により、その形は様々ですよね。
また関東においては、時期さえ違ったりもしますが、先祖供養ということに於いては同じです。
“お盆の行事” と聞いて、まず連想するのは「迎え火」

火は、すなわち“御霊”を導く目じるしです。
「私たちはここにいますよ、迷わないで来て下さいね」といった意味があるそうです。
また「送り火」や「精霊流し」には、“御霊”が間違いなくが天国に帰って行かれるように道筋を照らす意味があるそうですよ(^o^)b
広い意味で捉えれば「盆踊り」だって、ご先祖様に対する“ご接待”とも言えるでしょう。


前置きが随分長くなってしまいました(-_-;)
では、ボチボチ今回の “お祭り” ならぬ  “お盆の行事”  を紹介しましょう。

今日ご紹介するのは「大海の放下(おおみのほうか)」という  “盆行事”  です。
場所は、愛知県新城市の町はずれ “大海” という山に囲まれた小さな集落。



その小さな集落で、綿々と受け継がれてきた 「大海の放下」
私は、その風変わりな名前を聞いただけで、メラメラと興味が湧いてきました。
こりゃ、一見の価値あり!
ってことで、この日もカメラ片手に車をブッ飛ばして行って来ましたよ。

新城市は愛知県ではありますが、名古屋から車で行くには結構不便な場所でして、高速道路では随分と遠回りになります。
お盆の帰省ラッシュでもあったので、高速道路や主要幹線道路を避け、カーナビで最短距離の道筋を選んだのですが、これがとんでもない山道を選び出してしまいました(>_<)


泉昌寺

「落石注意」のすれ違いも厳しいクネクネした山道を登ったり下りたり、倒木も横たわっていたり、「イノシシ注意」の看板も・・・
ビビリつつも、ひたすら走り続けて2時間半、やっと辿り着いたのは静かな山村でした。
どうにか開始時間には間に合い、会場の「泉昌寺」に行ってみたものの、ひとりふたり地元の方がいるだけです。
どうなってるの???
早すぎたのかしらと、時計を確かめてみたのですが17時です。




ネットの案内には17時開始とあったはず・・・
そうこうしてたら、カメラを担いだ3人組のオジサンが登場。
ひと安心(^o^) 間違いでは、なかったようです。
しかし、オジサンたちは地元の方となにやら話しています。
なにげに傍に近寄っていって聞き耳をたてていたら、どうやら公民館に集まっているとのこと。
私がカメラを持っていたことに気づいたオジサンたちは「ここへ戻ってくるのは8時だってさ、公民館を出発したあと新盆の家々を回るらしいから、公民館に行った方がいいよ。 車はどこに駐車したの?ここは閉められちゃうんだって。駐車場もそっちにあるってさ。一緒に行く?」



「は~い、ついていきま~す」
方向音痴の私には、なによりありがたいお言葉、「渡りに舟」とはこのことです。
小さい集落ですから、公民館も“目と鼻の先”ではありましたが・・・

ではこの辺で、いつものように今回の行事についてのお勉強から始めましょう!


この「大海の放下」と呼ばれる “盆行事” の起源については、はっきりとした記録はありません。
しかし、「放下おどり」に使われていた古い太鼓には、寛政2年(1790年)という書き込みがあることから、少なくとも220年以上の歴史があることは確かなようです。
明治の頃に一旦途絶えたあと、昭和7年に熱心な伝承者により復活、その後また戦争により再び中断されたそうですが、昭和25年に再興して現在に至るそうです。
昭和36年には愛知県の重要無形民俗文化財に指定されたそうですが、私には少々納得がいきません。

なぜなら、これは絶対、国の重要無形民俗文化財に指定されるべき行事だからです。

いままで、たくさん国指定の重要無形民俗文化財を観てきましたが、この「大海の放下」がワンランク劣るとは考えられません!
って、ここで熱く語っても仕方ないので、話は お勉強に軌道修正。
どうも私の話は、あちこちと飛んでしまうのでいけませんね(-_-;)
えーっと、歴史の話は終わったので、次は由来についてのお勉強ですね。
そもそも「放下」とは、なんぞや?ってことを説明しましょう。

最初に「ほうか」とふりがなを付けましたが、正しくは「ほうげ」と読むのだそうです。
元々「放下(ほうげ)」とは、すべての執着を捨て去ることを意味する仏教用語です。



それが、いつしか大道芸の「放下(ほうか)」になり、その呼び名が定着して、今では「大海の放下(おおみのほうか)」が正式名称になったようです。
では、なぜ仏教用語が大道芸に変化したのかについて掘り下げてみましょう。
その昔、高野山の数多い聖(ひじり)たちの中に、一切の執着を捨てて念仏を唱えることに専心した一団がいました。

それが「放下僧」と呼ばれた人たちです。




源平争乱の荒れた時代、多くの僧侶が地方への放浪を余儀なくされました。
僧たちは全国を行脚しながら念仏を唱え布教していった訳ですが、その際、僧は民衆の心を和ませるために都の話や行く先々での出来事や行事を身振り手振りで話したのでしょう。


動乱が収まると、やがて「放下僧」は消え、「放下僧」を真似て民衆を愉しませる「放下師」と呼ばれる人達が新しい芸能としての「放下芸」を披露するようになりました。
「放下師」たちは一団を組み、日本全国津々浦々を廻ったと云われています。
そんな「放下師」を、娯楽の少ない山村では歓待したそうですよ。
以前にもご紹介した、神楽、獅子舞などと同じですね。
しかし、「放下芸」には、
神楽や獅子舞などといった芸のような “外連味” が足りなかったのでしょうな、
消えていく運命をたどっていったのです。
朗々と詠いあげられる物語や念仏も、伊勢笛と呼ばれる横笛と鉦とだけのお囃子も、パンチがないと言ってしまえばそれまでですけど、娯楽を求めた民衆には飽きられちゃったのかもしれませんね。

高万燈

しかし、奥三河のこの地には残りましたよ!
それは、山河美しいこの地の“お盆の行事”として、もっとも似合う形で残ったと言えるのです!

さて、それでは当日のようすに話を戻しましょうね。
公民館前には、地元の方と私のようなカメラを持った人達が合わせて40人くらい集まっていました。

このところ、大きな祭りばかり見てきた私には拍子抜けするくらいの静けさです。



公民館前では丁度、保存会の方が 「大海の放下」についての解説をされていて、「放下おどり」の装束を整えているところでした。
「放下おどり」の装束は、とてもユニークです。
背中に大きな団扇のようなものを背負い、お腹に太鼓を抱えた姿の踊り手が3人と、ササラと呼ばれる白い和紙の飾りがついた棒が16本束になっている道具(ササラ)を背負った人がひとり。
大きな団扇の大きさは、丈が3m幅1.2m、重さは6kgあって、お腹に抱えた太鼓の重量と合わせると10kgを超えるそうです。

その大団扇を脇腹に晒しの布でグルグル巻きにして装着し、太鼓も晒しの布で肩から吊り下げる形で装着するのですが、着る人はもちろん、着せる人も汗だくの作業です。
興味深かったのは、菅笠に手甲、脚絆姿であることです。
私には、昔の旅芸人の面影を残しているように思えました。
ちなみに、大団扇には家紋のような紋様が描かれていますが、この紋様の根拠については不明だそうです。



保存会の方による解説や新盆を迎えるお宅への順路の説明が終わると、「放下おどり」の一行は新盆を迎えられたお宅へと出発します。
「南無阿弥陀仏」と書かれた高万燈をもった露払いを先頭に、紋付羽織袴姿の総代、笛や鉦の囃子方、大団扇とササラの踊り手、提灯を持った歌い手と続く行列は、白と黒のみの装束で構成されています。
“お盆の行事” にふさわしい色合いの装束で、道中囃子は物悲しく、亡き人を偲ぶかの響きを奏で、狭い路地を抜けて一軒目のお宅へ。



新盆を迎えられたお宅では、亡き人の祭壇に遺影を掲げ間口に整え、迎え火を灯し静かに待っておられました。
特別な掛け声や合図もなく、静かに一礼することから始まった「放下おどり」は、早い動作や大きな動きはありません。
大地に足を踏ん張り中腰でシコを踏むような動作、太鼓は敲くというより「突く」ようにして打ちます。



これには意味があるそうで、“邪鬼を踏みつけ悪を突く”のだそうです。
横笛数本と鉦ひとつだけのお囃子は憂いを帯び、ゆるやかなテンポにあわせて踊る姿は、勇壮というより荘厳な儀式といった趣きです。
哀愁に満ちた節回しの譚歌(一般に広く伝誦された物語歌謡)や念仏も、その昔の「放下僧」の姿を彷彿とさせます。

この日も時間の都合で、最後まで見届けることは出来ませんでしたが、私にとってこの上ない満足と充実感を与えてくれました。

長い年月の間に廃れてしまった「放下芸」
それは、いままで私が見学した地方に残る数々の伝統芸能の中に於いても、もっとも興味深く、稀であり、先祖を敬う美しい伝統芸能でした。
これが、国指定の
重要無形民俗文化財でないのが不思議でなりません。
訪ねる人とて余り多くはない山間の伝統行事ではありますが、私にとって「お盆」とは、こういうものなのだと再認識させてくれました。
日本の美しい伝統を守ることの重要性、先祖を大事に敬い続けることの意味。

あらためて、この美しい日本の “盆行事” に出会えたことに感謝です。
今日も、最後まで読んでくださってありがとうございました<(_ _)>
まだまだ、私は地方に残る伝統を掘り起こしますよ。
頑張るぞ~!