2012年8月9日木曜日

日本一やかましいお祭り  -桑名石取祭-

こんにちは。
毎日、ウンザリするほど暑い日が続きますね。

家から一歩出ればセミの大合唱、「あ~うるさい!余計に暑く感じるよ」なんて 嘆いていませんか?
今日は、セミの声なんて ほんの“ささやき”にしか聞こえないような
“日本一やかましい祭り” をご紹介しますよ。
“日本一やかましい祭り” といわれる祭り、それは「桑名石取祭(くわないしどりまつり)」のことで、毎年8月の第1土曜日・日曜日に行われる「桑名春日神社」の祭礼です。




この祭りも また、「天下の奇祭」というキャッチフレーズが付くのですがね、私としては“日本一やかましい”というフレーズに興味をそそられた訳なんですよ。
そのうえ、国指定重要無形民俗文化財と聞いたら、何をおいても見に行かねば気がすまない性質でして(^_^.)
私が訪れたのは「本楽」と呼ばれる日曜日。
この日も 真夏の太陽がガンガンに照りつける猛暑日です。
炎天下の外出は、苦手でちょっとだけ気持ちが萎えます(-_-;)
しかし、そんなことは言ってられません。
なんとしても
“日本一やかましい祭り”を見に行かねば!  
首にタオルを巻いて、この日も気合を入れてGOです!




桑名市は、私の住んでいる愛知県のお隣の三重県ではありますが、愛知県寄りに位置するので、それほど遠い訳ではなく高速道路で1時間も走れば行けるところです。
祭りのパンフレットには 祭りの開始は午後1時とありますが、山車の曳きまわしが始まるのは午後4時半からということなので、どうやら「夜祭り」のようです。
ならば少し涼しくなってから行こうかな・・・3時に出発すれば間に合うな、なんて思っていたけど、やっぱり少々駐車場が心配。
結局、2時に出発することにしました。
順調に到着し、用意された小学校の無料駐車場に車を駐車。
まだまだガラガラに空いてます。



ちょっと早すぎたかしら(^_^.)
それでは桑名の町を散策でもしましょうと、歩き出したのが午後3時、しかし、とにかく暑い。

山車の集合している場所までは、そんなに遠いわけじゃないのだけど、もはや汗だくです。
どこかで涼まないことには熱中症にもなりかねない、ということで喫茶店を探し求めて、汗だくで歩いている途中に「石取会館」という、この祭りの資料館を見つけたました。
これはラッキー! ひと休みしようと入ってみれば・・・
私と同じように暑さに負けた多くの先客で満員御礼、椅子は満杯(-_-;)


思わずタメ息、汗だくの私を見て、受付の方が気の毒そうにウチワを差し出してくれました。
「アリガトウゴザイマス」 ・・・(T_T) 
諦めてトボトボ歩きだし、やっと見つけた喫茶店で、厚かましくも一時間ほど粘りましたが、アイスコーヒー一杯で いくらなんでも陽が沈むまで居すわる訳にもいきません。
気合を入れなおし、店を出て歩き出すと遠くからドンチャラドンチャラ賑やかな音が聞こえてきました。
「なんだ、もうこちらに向かっているんだ」と思い、周りを見回してみたものの見物の方もそう集まってはいません。



そこで、日陰に腰掛けて“見どころマップ”を広げて確認、間違いなく山車が通るルートです。
見物人も少ないし、ここで待っていようと決めて座り込んだのはいいけれど、いつまで待ってもドンチャラドンチャラが聞こえてくるだけで、いっこうに山車の姿は見えてきません。
ドンチャラドンチャラの音は次第に大きくなり、近づいて来ている気配はするのですが、いつになったら姿を現すのでしょう?



春日神社

それでは、山車を待つ間に「石取祭」の歴史を辿ってみましょう。
先ほど、この祭りは「桑名春日神社」の祭礼といいましたが、この「桑名春日神社」というのは俗称で、本当は「桑名宗社」というのが正式名だそうです。
「桑名宗社」とは「桑名神社」と「中臣神社」の両社をあわせた名称であり、古来から桑名の総鎮守として崇められてきました。
この神社の歴史は古く、平安時代の記録帳にまでその名を遺しているそうです。



しかし、どうして「春日神社」と呼ばれるようになったのでしょう。
どういう経緯で「春日神社」になったのかは分かりませんが、永仁四年(1296年)に「奈良春日大社」から「春日四柱神」を勧請合祀してから「春日神社」と呼ばれるようになったと記されているそうです。
とにかく壮大な神社であったらしく、織田信長や徳川家康も神領の寄進をしたそうですよ。
また、本田忠勝・松平定綱などの歴代桑名城主から手厚く加護された「春日神社」は、その後の激動の明治時代や大正時代もくぐり抜け、広い境内を誇ったそうですが、昭和20年の戦災で全て消失してしまいました。
現在の社殿は、規模を縮小することにはなりましたが、戦後 氏子の深い理解と努力によって再建されたものだそうです。



では、お次に「石取祭」の成り立ちについてお話しましょう。
そもそも「石取祭」とは、なんの祭り?ってことなんですけど、諸説あって、はっきりしません。
元々、桑名神社の大祭である「比与利祭」の中の一神事であったのが、宝暦年間(1750年代)に分かれて独自の祭りになったとは伝わっています。
しかし、それが どういった神事だったのかが 諸説に分かれるところなのですが、「比与利」というのは、禊祓をした神官たちが石を選ぶ時にヒョウリヒョウリと笛吹き鳴らしたことからそう呼ばれるようになったのとあります。


では、なぜ石を選ぶ必要があったのでしょうか?
石占い説、社地修理説、流鏑馬の馬場修理説と、まあ いろいろありますが、とにかく石を選び それを運ぶ神事であったのでしょう。
しかし、どうして「比与利祭」が「石取祭」に、ヒョウリヒョウリが ドンチャラドンチャラ になっちゃったのかしら?
その辺のことは さっぱり分かりませんが、どうやら「音」というのがこの祭りのキーワードであるような気がします。



これは、私の勝手な憶測で、そんなことはどの文献にも書かれてはいないようですが、音を打ち鳴らすことによって “邪気を追い払う” というようなことではないでしょうかね.。
まったく根拠のない推察ですけど・・・(~_~;)
まあ、私の憶測なんてどうでもいいですけど、桑名石取祭保存会のホームページには“400年の歴史”とありますから、とにかく伝統を誇る祭りであることは間違いありませんね。





さて、話は祭り当日に戻ることにしましょう。
聞こえてくるドンチャラドンチャラを待つこと1時間半、やっと一番山車が現れました。
石取祭においては、山車のことを祭車と呼ぶようなので、ここからは祭車と紹介しますね。
祭車は小振りで、3輪の御所車タイプです。
前方にいる3~4人で引っ張っているだけですから、そんなに重量はないのでしょう。
電線に引っかからないように提灯柱を折りたたむ役目の人が2人乗っていますが、3輪なので安定も良いし、方向転換も簡単に出来そうな形です。


前方の12張の提灯が吊るされた柱が立てられ、後方に積まれた太鼓と太鼓の両脇に吊り下げられた鉦(4個~5個)をドンチャラ打ち鳴らしながら巡行していきます。
提灯の柱の代わりに人形を立てている祭車も2~3台ありますが、ほとんどは提灯タイプです。
後方の太鼓の上には立派な織物の天幕がありますが、止まって叩き出し(たたきだし)をするときのみ掲げられます。
祭車のほとんどは、昭和の時代に造られたものですが、どの祭車も美しい彫刻が施され、とても優美です。




無塗装のもの、黒や朱の漆塗りされたもの、中には輝くばかりの貝蒔絵が施されたものまで、祭車の装飾はそれぞれ違いますが、基本的形や大きさは どの祭車も同じようです。
しかし、この祭りにとって祭車も町の自慢ではあるのでしょうが、その美しさを競うことより重要なのは、若衆の勢いなのではないかと私は感じました。
若衆たちは、交代で途切れることなく太鼓を敲き、鉦を打ち鳴らし続けるのです。
今年参加した祭車の数は38台。
その38台が、一斉にドンチャラ、ドンチャラ打ち鳴らし続けるのですから、そりゃもう賑やかです。


いや、賑やかと言うより、やっぱりやかましいです!
太鼓と鉦だけで、ほかに お囃子や歌が入るわけではなくて、ただただ ドンチャラ、ドンチャラ、いたってシンプル打楽器だけの構成。
しかし、その単純なリズムの繰り返しが、かえって馴染みやすくもあります。

それに若衆たちの掛け声まで加わると このうえなくうるさいのですが、慣れてくると それが決して嫌じゃないから不思議です。


やがて提灯に灯がともり、このドンチャラにも耳馴れ、私も祭り気分にノリ始めた頃、地元の方たちがぞくぞくとやってきました。
そうなのか(゜o゜)
祭りはこれからが、本番なのね。
そういえば、街中をウロウロしていたのは、私のようにカメラをぶらさげて歩いているオジサン・オバサンばっかりでした。



駐車場もヤケに空いてたし、「石取会館」にいたのもカメラマンばっかりだったような・・・。
それにしても、時間はもう8時半を回ってます。
こんな時間からなの~(@_@;)
いったい、この祭り何時までやっているのだろう???
私は、38台ある祭車の内、まだ18台しか見ていません。



全部見て帰りたいけど、とてもじゃないけど無理みたいな予感。
ということで、10時頃まで頑張ったけど、ボディーガードもいない私は夜中まではつき合いきれません。
仕方ないので、後ろ髪を引かれつつも帰途につきました。
帰りの車の中、普段ならCDでも聴きながら運転しますが、この日の帰り道、私の頭の中では ドンチャラ、ドンチャラがずーっと鳴り響いていました。


そして自宅に到着し、シャワーを浴びてベットに潜り込み眠りにつくまで、そのドンチャラは続いていたけど、なんか楽しかったなぁ。
“日本一やかましい祭り” 「石取祭」は、本当に “やかましい” 祭りでしたよ。
伝統があって、威勢もよくて、揃いの法被もカッコよく、地元の方々もほとんど浴衣姿。
それぞれの町の人達が、本当に大事に守ってきたお祭りなんでしょうね。
いやぁ~ 良い夏祭りでした(^o^)
私の “もう一度見てみたいお祭りリスト” に加えたい祭りです。


もし、このブログ読んで下さって、来年はこの祭りを見物に行こうと思ったみなさん、到着時刻は陽が落ちてからで充分間に合うので、ゆっくりとお出かけくださいね。
ちなみに私が帰る頃、駐車場には入庫待ちの車が行列をなしていましたけれど、ね。
では、この辺で失礼いたします。
本日も、読んでくださってありがとうございました<(_ _)>


2012年8月1日水曜日

勇壮な武者絵の万燈が乱舞する  -刈谷万燈祭-

広小路 (右)弁慶と牛若丸
こんにちは。
暑い暑い熱帯夜、ロンドンオリンピックでの熱き戦いから目が離せず、寝不足気味の方も多いでことでしょうね。
そんな暑い日に、私は熱い祭りに出会いましたよ。
今日ご紹介するのは、愛知県刈谷市の「刈谷万燈祭(まんどまつり)」です。
キャッチフレーズは“天下の奇祭”なんですが、この“天下の奇祭”と呼ばれる祭りは日本中にいくつあるのでしょうかね。
私が思うに「刈谷万燈祭」は“奇祭”と呼ぶほど変わった祭りではなかったように思うのですが(-_-;)
東陽町山車回し

いえいえ、決してけなしているわけではないのですよ。

さしずめ、私だったら“奇祭”ではなく、“気祭”あるいは“喜祭”と呼びたいなぁ~などと勝手に思ってしまったわけでして、それくらい気合の入った歓喜のお祭りだと感じたのです。
なんてったって、若衆の勢いが凄いのです。
気温も半端なく暑いですが、それ以上に若衆の心意気も熱い!
暑い熱い夏祭りに、観ている私たち観客も否応なく巻き込まれていくこと間違いなしの迫力に圧倒されてしまうお祭り、それが「刈谷万燈祭」です。



銀座 鞍馬山遮那王と大天狗


灯りの祭りですから、夕方から始まる祭りなのですが、前日の駐車場探しに懲りた私は早めに刈谷市に到着しました。
すんなり最寄の駐車場に車を駐車し、メインとなる大通りに直行しましたがまだ静かなものです。
とりあえず、この祭りの祭祀である「秋葉社」にお参りに行ったのですが、ここも静かなものです。

こじんまりとした「秋葉社」には、祭りの気配はすれどもあまりひとけもありません。

刈谷 秋葉社


あれ?間違っちゃったかな?と思いつつ歩いていると、ボチボチ露店などを設営をしている場所に行きつきました。
子供たちは走り廻っているけれど、あまりお祭りらしさも感じられません。
そこで、また街中を散策することにしたのですが、暑くてかないません。
熱中症になっても困るので、やっとみつけた喫茶店で涼むことに。

寺横町 連獅子


アイスコーヒーを飲みながら、カメラをいじっていた私に、ひとりの女性の方が声を掛けてくださいました。
「お祭りを見に来たの?どこから?」
「はい、名古屋から」
そう答えると、いろいろ祭りのスケジュールについて詳しく教えてくださいました。
その方は、どうやら商工会の方のようで、この喫茶店で打ち合わせをなさっていたようです。

まだまだ、祭りの開始の時間まで2時間もあり、どうやって時間を潰そうかと思案していたところ、話を聞いていた喫茶店の奥さんが「暑いから、ゆっくりここで待っていればいいよ」と言ってくださるではないですか。
なんとまぁ、ありがたいお言葉!
お言葉に甘えて、涼ましていただくことにしました。


司町 ヤマタノオロチ




とはいえ、ただ甘えるばかりでは申し訳ないので、スパゲッティー(ここでは決してパスタとは言わない)を注文して売り上げに貢献(*^^)v
そうこうするうちに、喫茶店の前を賑やかなお囃子とともに万燈が通り過ぎていきました。
いよいよかな?
喫茶店の奥さんにお礼を言って料金を支払い、大通りにいってみると、そこには武者絵をかたどった万燈がズラリと並んでいました。
まだ明るいので万燈には灯が入っていませんが、なかなか壮観な眺めです。

司町の山車回し
いつの間にやら、今までどこにいたのだろうと思えるほどの法被姿の若衆であふれかえっている大通り。
やがて、その法被姿の若衆が太鼓を載せた小さな山車を中心に集まり、太鼓を敲きながら気勢を上げ始めました。
まあ、その威勢のいいこと!
こう言っちゃ失礼かも知れませんが、お祭り騒ぎの馬鹿騒ぎ!
この日の朝方「尾張津島天王祭」の典雅な“朝祭”を見学してきた私には、その優美な時代絵巻とは正反対のこの祭りに、ただただ唖然。
思わず、なんじゃこれ~(@_@;)
しかし、やがて夕闇が訪れて万燈に灯が入ると、そのお馬鹿騒ぎも一変します。
新栄町 濃州穴間山中ニ山鮫ヲ打ツ


勇壮な 「刈谷万燈祭」 がいよいよ始まったのです。
さっきまで、ただ馬鹿騒ぎの若者だと思っていた若衆が、代わる代わる重さ60㎏もある万燈をひとりで担ぎ、笛や太鼓に合わせ乱舞する姿は力強く、勇壮なのです。
ごめんなさい、馬鹿騒ぎなんて言っちゃって、なにも知らないワタクシが悪うございました(-_-;)

申し訳ないので、ここいらで祭りの歴史などをご紹介しましょう。
「刈谷万燈祭」 は、前回ご紹介した「津島天王祭」と同日、7月の第4土曜日・日曜日に行われた祭りで、愛知県の重要無形民俗文化財に指定されています。
その起源は、安政7年(1778年)といわれています。


広小路五組 山車回し
その根拠は古文書「刈谷庄屋留帳」によるもので、安政7年「秋葉社」の祭礼において、笛や太鼓とともに万燈が登場したと記載されているためで、もっと以前からあったとも思われますがこの年を起源としたそうです。
と、いうことは230年以上の歴史がある祭りということですね。
秋葉の神といえば火伏の神様ですから当然、火難防除・町内安全を祈願するお祭りであるわけですが、一節には「雨乞い」の祭りでもあるといわれています。
この祭りの見どころである美しく彩色された武者絵や歌舞伎絵をかたどった万燈は、それぞれの町内の手作りによるもので、およぞ3ヶ月ほどの時間を費やして制作されるそうです。
広小路 川中島


万燈の大きさは、高さが約5m、幅は約3m、その重さ60㎏にもなるそうです。
骨組になる木材に竹を組み合わせて紐で結び、和紙を張って彩色するといった手の込んだ手順によって出来上がる万燈は、町民が力を合わせて制作されるのです。
それによって、より結束も固まるというものですよね。
近年では、秋葉社の氏子町7組(広小路・新栄町・銀座・司町・寺横町・東陽町・広小路五組)に加え、地元に拠点を置く企業アイシン精機や地域グループの参加もあり、ますます勢いのある祭りとなっているそうです。


司町の子供万燈


また、この勇壮な祭りにも多く女性が参加するようになり、祭りは一層華やかになりつつあります。
まあ、さすがに60㎏の万燈を担ぐ娘さんは見かけませんでしたが、近いうちに万燈を担ぐお嬢さんが現れるかもしれませんね。

さて、お祭りの実況中継に戻りましょう。

なにも「刈谷万燈祭」 は、大人ばかりの祭りではありませんよ。
各町内には、子供が作った万燈も登場します。
小振りではありますが、子供たちの万燈も決して大人の万燈に負けてはいません。
低学年の子供の万燈は、実に可愛らしくキャラクターをかたどったもの。

高学年の子供の万燈は、大人の万燈の4分の1くらいの大きさのものですが、立派な武者絵が描かれているものもありましたよ。
いよいよ万燈に灯が灯されると、それぞれの町の万燈が順番に「秋葉社」の境内へと向かいます。
そこで万燈の奉納舞が行われるのですが、狭い路地を通り抜け、あまり広くはない「秋葉社」の境内で行われる奉納舞は、狭いからこそ余計に迫力あるものとなります。
やがて、大通りに戻った万燈は、一斉に万燈回しの競演に至るのだそうですが・・・。
前日からのハードスケジュールの私は疲労困憊です(>_<)
うしろ髪を引かれながらも、この辺で引き上げることにしました。

それにしてもパワーあふれるこの祭り。
最初は激しすぎて気おくれしてしまった私には馴染めませんでしたが、徐々にその迫力に巻き込まれていきました。
帰る頃には、夏祭りはこうでなけりゃ!ってなもんで、車ゆえにビールも飲めない悲しさを味わいましたよ<(`^´)>
次にまた、この祭りに行くときがあれば、運転手つきか電車で行こうと心に誓った私なのでした。
お粗末<(_ _)>



2012年7月30日月曜日

500年の雅を今に伝える川祭り  -尾張津島天王祭-

まきわら船
こんにちは、今日も暑かったですね。
この暑い夏の真っ盛りに 私の住む東海地方では、最も有名で荘厳なお祭りが行われます。
それが、 「日本三大川祭り」のひとつに数えられる「尾張津島天王祭 です。
「尾張津島天王祭」は、約500年の歴史と格式を誇る「津島神社」の祭礼であり、あらゆる災い、飢饉や疫病から民を守り、荒ぶる神々の魂を鎮め、一年の無事を祈願する祭りでもあります。
織田信長も愛でたといわれるこの祭り、その
華麗で絢爛な祭りを皆さんに紹介しないわけにはいきません。

どんな酷暑にもめげず、今回も車を飛ばして行ってきましたよ(^o^)
しかも、なんと2日も続けて通ったのだから、この熱意を褒めてやってくださいよ。
2日続けて通ったのには、理由があります。
毎年7月の第4土曜日と日曜日に行われる「尾張津島天王祭」ですが、土曜日に行われる「宵祭」と日曜日に行われる「朝祭」があるのです。
「宵祭」と「朝祭」とでは、まったく趣きが異なるので、その両方をご紹介しなくては
「尾張津島天王祭」は語れないと思ったのです。

「尾張津島天王祭」で有名なのは、365個の提灯を掲げた「まきわら船」が天王川をゆく幻想的な「宵祭」の方ですが、私としては翌日の「朝祭」も、ぜったい見逃せないほどの魅力があると思ったのです。

では、1日目の「宵祭」の紹介から始めましょう。
「宵祭」ですから当然夕刻から始まるわけですが、なにせ、この地方では最も人気のあるお祭りですから駐車場確保のために5時に自宅を出発しました。
祭りのクライマックスとなる「出船」の予定時刻は午後9時です。
自宅から、高速に乗れば1時間で行ける距離ですから、そんなに慌てることはありません。
5時出発でも充分間に合うはずなどと考えていた私が間違いでした。
特別な渋滞などもなくスムーズに到着したのですが、その時刻には、もはや会場となる天王川公園付近の駐車場はどこも満杯。

参りました(>_<)
会場の周囲をグルグル廻りましたが、結局会場付近では駐車場を見つけることが出来ず、会場整理の方に教えて頂いた、かなり離れた場所にある文化会館に駐車して歩くこと40分。
夕刻だというのに一向に下がらない気温、微風すら感じられない猛暑に汗まみれでようやく辿り着いた会場は物凄い人出、思わずタメ息が出ちゃったけれど、ここまで来たからには頑張らねば!

会場となる天王川公園の丸池の周囲には、有料の桟敷席が設けられています。
また、有料の観覧船も出ています。
料金は知りませんが、とってもお高いとは聞いたことがあります。
「いいなぁ~」あんなところで見られたら・・・羨ましいですよ。
しかし、別に桟敷席じゃなくても、どこからでも見ることはできます。
取りあえず地元の友達から聞いていたビューポイントに向かうことにしましたが、なにせ初めて行ったところなんで、さっぱり分かりません

池の周囲を歩き回り、やっとそれらしき場所に辿り着きました。
なぜ分かったかと言うと、そこにはカメラマン軍団の三脚がいっぱい立ってましたからね。
当然、もう入り込む余地はありませんから、少し離れた場所で待機することにしました。

「宵祭」の見どころは、なんといっても提灯を揺らしながら、川面を滑るように滑らかに進んでゆく幻想的な「まきわら船」の巡航です。
どこもかしこも人だらけではあるけれど、その多くの見物客がその時を今か今かと待っています。
しばらくすると賑やかな花火も上がり、いっそうの高揚感搔き立てます。
やがて、「まきわら船」が会場に向けて出発したとのアナウスにカマラマンたちが一斉にカメラを構え始めました。
私も少し緊張しながらカメラを構えていると、来ました!

丸池へと続く天王川のとカーブをゆっくりと曲がって現れた「まきわら船」。
その姿の優雅で美しいこと!
私は、しばしシャッターを切ることさえ忘れて見惚れてしまいました。
もう、写真なんかどうでもよくて、ただただ眺めていたいほど美しいのです。
ゆらゆらと川面に照らし出された提灯の光が幻想的で、お囃子の美しい笛の音にうっとり聞き惚れ、典雅な時代絵巻にすっかり夢見心地に陥ってしまった私。
私の撮った写真なんかでは、この素晴らしさを伝えることなど到底無理のような気がします。

しかし、そうであってもなんとか皆さんにお伝えしなければ!
やっと我に返った私は、夢中でシャッターを切り続けましたよ。
お粗末な写真で申し訳ないので、ここいらで
「尾張津島天王祭」の「まきわら船」についての解説をしておきましょう。

まきわら船とは、二隻の船を繋ぎ、中央に真柱(まばしら)を立てその周りを竿のついた提灯で半円形に装飾された船のことで、竿を突き立てるところが巻藁で出来ているため、「まきわら船」と呼ばれています。
真柱に取り付けられる提灯の数は通常12個、一年の月数12か月を意味します。
けれど、今年は13個。その訳は、今年が旧暦の閏年にあたるからだそうです。
半円形に形作った提灯の数は365個、一年の日数を意味します。


津島神社
その他に取り付けられた提灯の数を合わせれば1艘につき約500個もの提灯が灯されるのです。
このような豪華な 「まきわら船」 「尾張津島天王祭」では登場します。
「まきわら船」の提灯が水面に映える景色は優雅そのものです。
間違いなく、国重要無形民俗文化財に値する素晴らしい祭りです。
いままで、どちらかと言うと素朴な祭りが好きだった私も、今回は文句なしに魅了されてしまいました。
この日「宵祭」の余韻に酔いながら、夢見心地で家に辿り着いたのは午後11時を回っていました。


「宵祭」の美しさにすっかり魅了されてしまった私は、興奮してなかなか寝つけませんでしたが明日の「朝祭」に備えて、この日は撮った写真すら見ることなく、すぐに休みました。

さて、2日目の「朝祭」の紹介の前に、このお祭りについての歴史をお話ししましょう。
「尾張津島天王」の始まりについては、資料が乏しくはっきりとした年代は分かりません。

しかし、ある記録によると大永2年(1522年)には、「車楽船の置物人形」という言葉が記されており、当時すでに現在の祭りに近い形の祭りが行われていたと思われます。


また、津島の古い記録「大祭筏場車記録」には、弘治4年(1558年)に織田信長も一家揃って、この祭り見物をして大いに楽しんだと記されているそうですよ。

当時の津島は、伊勢湾に注ぐ天王川を有する尾張最大の湊町であり、尾張と伊勢をつなぐ商業都市でもありました。
江戸時代の後期には土砂の堆積が進み、もはや湊町の機能を持たなくなった天王川でしたが、その後も尾張藩からの手厚い庇護を受け、絢爛豪華な祭りとして日本国中にその名を知らしめましたそうです。
あの「東海道五十三次」で知られる浮世絵師歌川広重も「六十余州名所図会」で、この祭りの「宵祭」を描いていますよ。


そして、一夜明けて2日目。
目が覚めたのは6時半、8時半には始まる祭りに遅れてはならじと、この日もコンビニで買ったパンをかじりながら飛んで行きました。
昨日の経験から、最寄の駐車場をチェックしておいたのでスムーズ駐車して、「車楽船(だんじりぶね)」の車河戸(組立池)に直行しました。
そこには早くも、昨日とはガラリと姿を変えた車楽船が待機していました。
その高さは、優に8mはあろうかと思われます。



豪華な刺繍の施された幕に赤白の梅の花で彩られた優美な「車楽船」。
下段には、お稚児さんや囃子方らが乗り込む御殿があり、その上段に能人形が飾り付けられています。
なんと美しいことでしょう!
昨日の「まきわら船」が、装いを一変して「車楽船」になるわけですから、夜を徹しての作業であったことを窺い知ることができます。
それを思うだけでも、伝統の重み、町衆の意気込みがわかりますよね。



しかし、あまりにも「宵祭」が有名なせいか、「宵祭」に比べて「朝祭」を見学にいらっしゃる方は、かなり少ないのにも驚きました。
私も、今回初めて「朝祭」があることを知った人間ですから、偉そうなことは言えませんが、これほど優美な「車楽船」を見にいらっしゃらないなんて凄く残念です。
夕闇に浮かぶ「まきわら船」が素晴らしいのはもちろんですが、池に浮かぶ「車楽船」もまた、一幅の絵巻物を見ているように絢爛豪華でしたよ。
その名のごとく「朝祭」なので、午前中だけで終了してしまうお祭りですが、「宵祭」と合わせて、ぜひ「朝祭」もみてもらいたいなぁ~と考えつつも家路に急ぎました。




なぜなら、この日はどうしても見たかった、もう一つの「夜祭り」があるからです(*^^)v
まあ、それは次回のお話として、暑さでバテバテではありましたが、気力で通った2日間。
私は、この東海地方でこれほど豪華絢爛で優美なお祭りを見たのは初めてでした。
そこには、浮かれたお祭り騒ぎなど微塵もなく、粛々と荘厳な儀式としての祭りを見ることができました。
楽しい祭りも大好きですが、このような荘厳な祭りに出会えたことも、私にとってはとても幸せなことです。

500年の伝統を今に伝える川祭り、「尾張津島天王祭は、本当にみなさんにも、ぜひ見て頂きたい祭りです。
この地にゆかりのある人間でもなんでもありませんが、紹介できるだけでも誇りに思える、そんな祭りでした。 
今日も読んで下さってありがとうございました。
次回は、超~威勢のいいお祭り騒ぎをお伝えしま~す。
では、この辺で<(_ _)>


2012年7月22日日曜日

巨大な鯛が練り歩き、海をゆく  -豊浜 鯛まつり-


こんにちは。
いきなりですが、どうです?
この迫力満点のデッカイ鯛!

まさしく、めでたい!目出鯛(@_@;)でしょう。
私は昨日、このデッカイ鯛のお祭りに行ってきましたよ。
東海地方は梅雨が明けて猛暑日が続いたあと7月とは思えない涼しい朝をむかえたこの日、待望の「鯛まつり」が行われました。 

毎年、このお祭りが行われるのは、愛知県知多郡南知多町豊浜。
知多半島の先っぽの町です。


伊勢湾に面する南知多町豊浜は、県下ナンバーワンの水揚げを誇る漁師町。
威勢のいい漁師さんたちのお祭りですから、まさに男の祭り!勇壮な祭りとして有名なのですよ。
お祭り女子としては、こりゃなんとしても見逃すワケにはいけません。
なにせ、漁師さんの祭りであるだけに早朝から始まるこの祭り、 早起きしてもモタモタしている時間はありません。

コンビニで買ったパンをかじりながら、すっ飛んで行きましたさぁ(*^^)v
しかし、この日は今にも降り出しそうな暗い雲が広がる曇天。
多少の雨なんかで中止になるようなヤワな祭りではありませんが、ちょっと心配。
それでも、海に近づいて行くほどに明るくなってきましたよ。
やっぱり私は、晴れ女。

さあ、頑張って写真撮るぞ~!
車を駐車し、歩きだして5分で一匹めの巨大鯛に遭遇。
ヒョエ~(@_@;) デッカイです!
お囃子も賑やかです。
さっそくカメラを出してパシャ。
祭り広場となっている港付近は、もう、凄いカメラを持ったオジサンでいっぱいです。

私には関係ないですけど、フォトコンテストなんてのもあるそうですからね、みなさん、チカラ入ってますよ。
私の腕前では、フォトコンテストなんてほど遠い話なのですが、 隣にいるおじさんのカメラを横目でチラッと見て、羨ましくもある今日この頃・・・(-_-;) って、そんなことはどうでもいいですね。


くだらない話はこれくらいにして、そろそろお祭りの紹介をしましょうね。
豊浜「鯛まつり」は“天下の奇祭”といわれています。
“天下の奇祭”と呼ばれる祭りは日本各地にありますが、この祭りが“奇祭”と呼ばれるのには、どうやらその歴史に秘密があるようですよ。
では、その歴史のお話から始めましょう。
「鯛まつり」の始まりは、明治18年頃といわれていますから、いままで紹介してきた“祭り”に比べると、長い歴史と伝統を誇る祭りとはいえませんね。
しかし、この祭りの歴史と変遷は、とても興味深くてユニークなのです。
澤田憲二さん撮影


今から、その変遷のいきさつを書いていきますが、心温まるエピソードの数々が、きっとみなさんの心を和ませてくれますよ。
なんか勿体ぶった言い方をしちゃいましたね。
では、時代を追って話をしていきましょう。
元来、「鯛まつり」は、この地域の鎮守「中洲神社」の祭礼から始まったそうです。
その起源は、はっきりしませんが、江戸中期には藁と杉の葉から作った干支の「だし物」を奉納する習わしがあったようです。


しかし、ある年祭礼で、その「だし物」に火がつき火事になるという事件が起きたのです。
そこで、この地を治めていた殿様によって、「だし物」が禁じられてしまいました。
それからは、「だし物」もない質素な祭礼が幾歳月か続いたのですが、明治の始め頃、それを寂しく思ったある村人がいました。
中洲村の森左衛門さんと森佐兵衛さん兄弟です。
元々船大工さんだった森兄弟は、さびしい祭り盛り上げようと、とても立派な舟型の山車を造ったそうです。

澤田憲二さん撮影
村人は大変喜び、祭りは活気を取り戻しました。
しかし、また大きな悲しみが訪れたのです。
明治12年、この村でコレラが蔓延してし、多くの死者が出ました。
漁に出ても魚を売ることも出来ず、村の財政は危機に陥り、立派な山車さえも売らなくてはいけなくなってしまったのでした。
泣く泣く船山車を手放すことになった中洲村。
しかし、その6年後、またもや寂しくなってしまった祭りに、森佐兵衛さんは立ち上がります。
木材も手に入らない中、得意だった「ハツカネズミ」の小物作りを張りぼての「ハツカネズミ」にすることを思いつきます。


これが「鯛まつり」の始まりといわれています。
えっ?でも、このままだと「鯛まつり」ではなく、 「ハツカネズミ祭り」になっちゃいますよね。
その後、張りぼては「ハツカネズミ」 から「象」になったり、「牛」や「兎」になったり、ほとんど“おもいつき”で造られそうですが、明治30年頃から漁師の町にふさわしく、海の生き物になっていったようです。
昭和の初め頃には、張りぼても次第に巨大になり、「伊勢エビ」や「クジラ」の張りぼても登場したそうですよ。
現在のような「鯛」になったのは、昭和12年頃。やがて、この“おもいつき”は、中洲地域に限らず、隣町にも広がっていき、昭和51年には周囲の町も含めて5匹の鯛が勢ぞろいするようになったそうです。
なかなか面白いエピソードでしょう。
ほろっときたり、愉快だったり、いいんだなぁ~(#^.^#)
こういう歴史を知ると、一層祭りが楽しめますよ。


さて、祭り当日に話を戻しましょう。
大鯛の町内巡行が終わると、大鯛の横では若い衆の酒盛りが始まります。

その賑やかなこと、まあ半端ない数のビール缶があたり一面に転がっています。
さすが漁師さん、大酒のみの揃い踏みですな。
年に一度のお祭りですから、それはそれでいいのですが、ビールを飲めば自然現象が・・・。
あちらこちらで、立〇〇のお兄さんに出会ってしまうのが困り物でしたけどね(-_-;)
そんなこんなで、その場を離れることにした私ですが、おかげで港の近くのお寺を散策したり、観光市場を覗いたり、漁師さんの食堂に入り安くて美味しい昼食もいただきましたよ。



午後になると、号砲が打ち上げられ、いよいよ大鯛の集結が始まります。
ところがこの号砲が雨雲を刺激したのか、ついに雨がポツリポツリと降り出してしまいました。
それでも幸いなことに本降りとはならず暫くすると雨も止み、集合地で待っていると次々と大鯛が入って来ました。
ちょっとばかり千鳥足のお兄さんたちが右や左にうねりながら、まさしく大海を泳ぎ回る巨大な鯛のように近づいてきます。

集合広場の手前で回転する姿は迫力満点。
尾ひれに蹴散らされそうで、怖かったくらいです。


澤田憲二さん撮影
4匹の鯛が広場に収まったところをカメラに収めた私は、満足して帰途につこうと思ったのですが、今ひとつ納得がいきません。
なぜなら、どの鯛も全部赤いのです。
あれ?パンフレットには確か黒い鯛もいたはずなのに・・・。
そこで私は、祭り案内所まで戻り、商工会の方に尋ねることにしました。
「観光パンフレットには黒い鯛もいたように思いますが、どうして全部赤いのですか?」
すると、こう教えて下さいました。
「今晩、このうちの1~2匹を黒く塗るのですよ」
ふ~ん、なるほど。



澤田憲二さん撮影
「どうして、最初から黒い鯛ではいけないのでしょうか?」
すると答えは

「さあ、どうしてなのでしょうね」
・・・・・・(・_・;)
「ありがとうございました」
家に帰り、ネットでいろいろ調べてみましたが、20年前から一晩で真鯛から黒鯛に変身させるようになったとだけしか書かれていませんでした。
未だ、そのナソは解けていませんが、たぶんこれも
“おもいつき”なんじゃないでしょうかね<(`^´)>


澤田憲二さん撮影

ところで、いなかったはずの黒い鯛の写真がなぜあるのか!って気づいていただけました?

私が訪れたのは2日間行われる祭りの初日。
陸地での巡行は観られたものの、海に入っていく大鯛の姿や黒い鯛は2日目の行事なので、写真を撮ることが出来ません。
そこで、特派員の登場です。偶然にも「鯛まつり」の写真を撮りに行く予定をされていたフェイスブックの友人、澤田憲二さんに入水した大鯛のショットをお願いしたのです。
私より遥かに優秀なカメラマンさんなので、いつもより数倍迫力のある写真を掲載することが出来ましたよ。



幾多の遍歴をたどり、戦争という厳しく暗い年月の間も地域の人の努力で守られてきた「鯛まつり」
“おもいつき”の発想がとっても愉快で、豪放磊落な漁師の心意気が感じられるお祭りでしたよ。
みなさまも来年はぜひ、お出かけになりませんか。
美味しい魚も食べられますよ。
今日も読んで下さって、ありがとうございました。
では、今日はこの辺で<(_ _)>