2014年10月28日火曜日

絢爛豪華な山車が海を渡る    -蒲郡 三谷祭-



海中渡御
皆様、こんにちは。
日増しに秋も深まり、北国からは紅葉の便りが届く錦繍の季節になりましたね。
私の住む東海地方でも、街路樹の葉が日を追って色づいてきましたよ。
この地方が本格的に秋色に染まるのは11月中旬ですが、お友達の美しい紅葉写真を拝見する度、今年はどこの紅葉を撮りに行こうか、じっくり思案中の今日この頃です。

さて、秋も深まりつつある中、今回は3トンもある絢爛豪華な山車が、海中を渡御するという荒技で有名な三谷祭(みやまつり)をご紹介しますよ(^^)/


八剱神社
まずは、場所のご案内から始めましょう。
祭りが行われるのは、愛知県蒲郡市三谷町。
およそ1200年の歴史を誇る温泉の町三谷町は、三河湾国定公園の中にあります。
その美しい景観と三河湾で水揚げされる豊富で新鮮な魚介類が豊富で、名古屋近郊から多くの観光客が訪れる場所として有名です。
温泉自体は長い歴史を誇りますが、戦前までは湯治場の程度であったそうです。


賑わう境内

その湯治場が温泉観光地となったのは戦後で、日本人にもレジャーという言葉が浸透し始めた頃。
中京圏からの利便性もよいことから大いに発展を遂げ、最盛期には30軒以上のホテルや旅館を有した一大温泉観光地が形成されました。
近年はレジャーの多様化と、なまじ利便がよいがゆえに宿泊する観光客も減り、大型ホテルの倒産なども相まって少しづつ衰退の道をたどっています。


雨合羽を被った山車(ちょっと残念)
しかし、そんな逆風の吹く状況のなかでも、地元観光協会の努力とそれぞれのホテルや旅館の創意工夫により、美味しい海の幸が味わえる温泉地として、まだまだ根強い人気を確保しています。
私も会社員だったころ、お泊り忘年会などで何回か宿泊したことがありますよ。
思い起こせば、バブリーな時代でした・・・。
海を眺めながらの温泉、海の幸満載の豪華料理・・・。
あぁ、極楽な時代でしたなぁ~(*´ω`)
おっとっと、話が脱線しそうなので、この辺で方向転換しましょう。


海中渡御を前にして、盛り上がるお囃子

では、次は三谷祭の歴史ですね。
その始まりは、今から約300年程前の元禄九年(1696年)8月の或る夜、三谷村の庄屋“武内佐左衛門”の不思議な夢から始まったと言われています。
では、庄屋さんの見た夢とはどんな夢でしょう?
それは、この地の氏神様である八剱大明神が、村の東にある若宮八幡(若宮神社)へ渡御なされたというもの。


若宮神社に向けて、いざ出発


これは、神のお告げに他ならない!
ってことで、庄屋さんは早速神輿を拵えて、村人を集めお告げの話を聞かせます。
村人達は、信望の厚い庄屋さんの夢に八剱大明神様が現れたとなれば、まさしく神のお告げに他ならない!と、快く協力を申し出ます。
そして、重陽の節句(九月九日)に、村人総出で八剱大明神を神輿に載せて八幡様(若宮神社)へと送り届けたそうな。


気合い十分な若衆


まぁ、にわかには信用出来ない話ではありますが、現存する資料によれば、村を挙げての祭礼として正徳二年(1712年)の記録が残っているそうですから、300年の歴史は間違いのないところです。
それにしても、お殿様でもなく庄屋さんの鶴の一声で始まったとは、なかなか豪儀な話じゃないですか!
私、個人的には好きですね、この手の話(^_^;)


走る、走る、Go!Go!(=゚ω゚)ノ

その後、村の発展に伴い祭礼は益々盛大に執り行われるようになっていきます。
神輿はいつしか大型の山車となり、各区の旦那衆は競って絢爛豪華な山車を建造し始め、それに加えて神楽などの余興も行われるようになると、近郷に知れ渡る大きな祭りとなりました。

三谷祭の最大のみどころである山車の海中渡御の成り立ちは、八剱神社若宮神社をつなぐ道の道幅が非常に狭かったことに由来します。
神輿であったならば、難なく通れる道でも巨大化した豪奢な山車となると、どうしても海岸を横切り、海へ出て渡らなければならなくなってしまったのですね。
これまた豪胆な話じゃないですか!
京の祭りを見習って建造したという豪華絢爛な山車を海の中に引きいれてしまうなんて・・・
汚してしてしまったり、傷んでしまうことには考えなかったのかしら?
なにより危険だし、海中で身動きが出来なくなったりしないのかしら?



海岸前に山車が集結(4台ありますが、1台が遅れています)

そんな疑問が数々湧いてきますが、でも、大丈夫!
三谷の男は、みみっちいことに頓着しないのです!
それに山車には、ちゃ~んと海中渡御に適した独特な工夫がなされていましたよ。
でも、その話は後ほどにして、祭りの歴史の続きを・・・
海中渡御という荒技を有した三谷祭は、見る人の度胆を抜き、驚嘆させるのに十分余りある迫力で、いつしか「天下の奇祭」の名を欲しいままにしました。



海中渡御開始

三谷の男の面目躍如ですね。
しかし、連綿と受け継がれてきたこの祭りに大きな影を落とす出来事がおきます。
それは、昭和34年に この地を襲った伊勢湾台風。
大きな被害をもたらしたこの台風により、海岸埋立工事や大規模な護岸工事が急務となり、海岸付近の地形は大きく変わっていってしまったのです。



手前が上区の山車、後方が西区の山車

幸か不幸か、八剱神社若宮神社をつなぐ道は、道幅も十分な広さとなり、海を渡る必要性は まったくなくなってしまったのです。
その後も三谷祭は続いていきますが、伝統の山車の海中渡御は、昭和三十五年の祭礼を最後に一旦は姿を消したのでした。
呼び物の海中渡御がなくなった三谷祭「天下の奇祭」の名の返上となってしまいました。
やがて世代は変わり、海中渡御の勇姿を知らない子供たちも大人になっていきます。
一方、観光地としての町は少しずつ寂れていく中、昔の祭りを懐かしむ人々や、勇壮だった海中渡御の話を聞いて育った若者たちの間で、町の活性化にもつながる山車の海中曳き入れを復活しようという声が次第に高くなっていったのです。
そして平成7年、ついに復活の火が灯されました。
この年は、1台の海中試し曳きに成功。
翌年には、4台の曳き入れに成功して、遂に海中渡御完全復活を成し遂げてのです!
これぞ、三谷の男のマンパワー!
郷土を盛り上げようという固い絆が生んだ賜物ですね。


手前が北区の山車、後方が中区の山車
さて、三谷祭の概要は理解して頂けましたか?
では、祭りの本番に突入いたしますよ。
この日私は「今年こそは!」の意気込みで、頑張って早起きしました。
身支度を整え、いつものようにカメラ2台とおにぎりをふたつにゆで卵をひとつ携えて7時に家を出発予定です。
なぜ、私がこんなに張り切っているのかって?
これには訳があるのです。
実は、かなり以前からこの祭りを紹介したいと思いながら、どうにも日程が合わず、やっと去年その機会に恵まれましたが、天候不順であえなく中止。
あれから一年、待ちに待ったこの日、早起きも全然苦になりませぬぞ。
まるで遠足を前にした幼稚園生並みのハイテンションな私。
さぁて、出かける準備万端、ガソリンも満タン♬ てなダジャレの独り言も・・・(;´∀`)
それにしても、なんか暗いなぁ、いくらなんでも陽が昇る時刻じゃないの?
前日の綺麗な夕焼けを信じ込んで、この日が悪天候になるとは微塵も疑わなかった私。


悪天候ではありますが、遠くにうっすらと渥美半島が見えます。

窓を開け 空を見上げて 腰砕け  
byこでまり  お粗末<(_ _)>

まさかの暗雲が広がる曇天でござる。
えっ!えぇぇ~~~!ひょっとして、また中止?
出ばなをくじかれて、一気に意気消沈(-_-;)
しばらくは呆然としていたものの、ここで悩んでいても始まらない!
予定より20分遅れましたが、もう、こうなったら雨が降ろうと槍が降ろうと現地へ行くしかないのですです。



海から上がってくる上区の山車

おかげで高速道路は空いていましたが、天候は一向に回復する兆しもなく、雨は降ったり止んだり。
約1時間半のドライブで、三谷町に到着。
不思議なことに道中降っていた小雨は止み、空を覆っていた暗雲も切れつつります。
これもひとえに、日頃の心掛けが良い私のためにひと肌脱いでくださった武神八剱大明神様のご加護と信じることにしましょう。
ありがたや、ありがたや。
お賽銭は、いつもより多めに致しまする<(_ _)>

さて、無事に三谷にたどり着いた私は、見物人のために用意されていた駐車場に車を置き、この日の山車の出発地である八劔神社まで、流れてくるお囃子の音を頼りに歩いていきました。
ちなみに、この三谷町は祭り見物の観光客に非常に親切な町で、用意された駐車場はすべて無料、どこへ行っても駐車料金を請求される昨今、大変嬉しいことです。
また、海中渡御が終わり、山車が集合した若宮神社では、厄年の方による‟うどん”の振る舞いもあるそうですよ。

西区の山車

もちろん、一般観光客でも頂けるそうです。
太っ腹ですよね、いやぁ~三河の人は心が広い!その心意気、ごっつぁんです!
残念ながら私は、また一雨きそう雲行きに負けて海中渡御だけの見学に終わってしまいましたが、実に悔やまる次第です。
いや、なにも食い意地だけで言っているのでは決してありません。
そういう地元の方とのふれあいを純粋に感じたかったのです。


お父さんたちは頑張っています

まぁ、‟うどん”を食べられなかった話など、どうでもいいですよね、失礼しました<(_ _)>
余談ばかりで、ちっとも前に進まないので、ここで一気に進めることにしましょう。

八剱神社に到着した私は、まずはお参りです。
そして、次々と神社の境内に集まる各区の代表の人たちの神事をしばらく観察。
実に多彩な装束の若者や子供たちがいます。
むむむっ!これはかなりの多様多彩な芸能が行われるということにほかなりません。
そうなのか!

北区の山車
私の頭の中は、勇壮な海中渡御のことばかりで、ついぞ、その他の奉納神事については考えも及びませんでした、ごめんなさい<(_ _)>
この日、八剱神社においては神事(お祓い)のみで、多彩な伝統芸能は、海中渡御が終わったあと、若宮神社での奉納となります。
よし、しっかり見て帰ろう!
(この時は、まだ天候も持ちそうなので、そう考えていましたが・・・結局、小雨に負けて挫折)

賑わう境内を抜けて、神社前の道路に出てみると、そこには4台の山車が勢ぞろいしていました。
ちなみに三谷町では、山車”だし”とは呼ばず、”やま”と呼びます。
京都の祭りに影響を受けただけあって、呼び方も京風ですね。
しかし、残念なことに山車は、屋根を守るように短いビニールの雨合羽を被っていました。
まぁ、こんな天気ですし、仕方のないこととは思いますが、海にも入ろうという山車なんだし・・・
ここは、ひとつ痩せ我慢をして欲しかったなぁ~
と、勝手なことを呟いてみたりして・・・(^_^;)

東区の「神舟若宮丸」

三谷祭には、上区・西区・北区・中区が大型の山車、東区は小型の舟形の山車で、松区は神輿という形で6区が参加します。
現在使用されている大型の山車は、いずれも明治以降の建造となりますが、彩色彫刻が施された金色に輝く豪華絢爛な山車です。
山車の大きさは、高さが5.5mから6m、幅と長さは4m弱で、今まで私が見てきた山車の中では中型といった感じです。
特徴としては、やっぱり海中渡御に適している、その形です。

太い車輪


幅に対して、あまり長さがないこと。
車輪は幅が太く、中央寄り取り付けられており、重心は低く分散しないように保たれる造りになっていること。
綱のみで引っ張るのではなく、山車の前後に渡された長い垂木によって、人力の押し出しが出来るようになっていること。
海中に沈む部分には、装飾的な塗装はされていないこと。
これらが、私の見つけた特徴ですが、他にもきっと隠された創意工夫がなされているかもしれません。


中区の山車

さて、話は、現場に戻ります。
八剱神社を出発した山車は、若宮神社までの約1㎞の道のりを割とスピーディーに駆け抜けたり、止まって練りをしたりしながら、1時間弱で若宮神社に到着。
と思ったら、どうでしょう!
山車は、若宮神社の前で一旦は止まりますが、素通りしてまだ先へと進んでいきます。
??? あぁ、そうか!
私は、やっと気づいたのです。
海中渡御なんだから、海を渡らずして若宮神社に入ることが出来ようか!
ってことなんですねぇ~。


海から上がった北区の山車

海中渡御の場所は、昔は八剱神社と若宮神社の間にあったはずだけれど地形が変わり、現在は若宮神社の先になってしまったわけですね。
仕方のないことだけど、無理くりというか、ゴリ押しというか、なんだか愉快になっちゃいました。
せめて、若宮神社の前を素通りしなくてもよいコースがなかったのかしら・・・ね(;´∀`)
と、また勝手なことをつぶやく・・・

さあ、いよいよ山車が海岸に到着しましたよ。
早くも海岸には、多くの観客が山車が到着するのを待ち構えていました。
山車と一緒に行動していた私は、ありゃりゃしまったぁ!(@_@;)
こりゃ、カメラを構えるポジションがないかも・・・
一瞬、焦りましたが大丈夫。
広く湾曲した入江なので、どこにいても見渡すことが出来ます。
ただ、ちょっとばかり遠くなりますが。
私はというと、いつもの調子で地元のオジサンらしき人から情報収集。


しんがりの中区の山車が海から上がって駆け抜けていきます
おかげで、山車が海から上がって来る付近で、カメラを構えることに成功しました。
ポジションも確保したので、ワクワクしながら渡御の時間を待ちますが、またポツリポツリと小雨が・・・(*_*)
海を眺めても空と水平線の境さえ、ぼんやりしてよく分からないような状態。
ここで、あらかじめお詫び申し上げますが、写真には期待しないでください。
普段はこういう調整はしませんが、この日はあまりにも暗くてどんよりと霞んだような空模様だったので、カメラの設定を目一杯明るく鮮やかな色が出るように調整しました。
従って、写真は実際より明るく、しつこく色合いで、少々うそっぽい感じに仕上がっております<(_ _)>


たくさんの観客に見守られて岸に上陸していきます

号砲一発!入り江に集結した4台の山車が、いよいよ海に入っていきます。
海岸は、大きな拍手と歓声包まれ、あちこちから一斉にシャッターを切る音も開始。
天候はイマイチとは言え、なんと荘厳な眺めでしょう!
その美しさとスケールの大きさに撮影も忘れて、しばし見入ってしまいました。
高く掲げた山車柱に各区の誇りを感じます。
はためく日の丸に日本男児の心意気が宿ります。
ヨッ!日本一! カッコいいぞぉ~



安心しきった表情の子供たち
祭りは、男の大舞台?晴れ舞台?
演歌モードになった頭の中は、なぜか、さぶちゃんの「祭りだ、祭りだ」フレーズがぐるぐる。(そこしか知らないので、前には進まないのですが)
あはは、また脱線(^_^;)

地元のオジサン情報によれば、この日は かなり潮位が高いとの事。
最初に入って行った上区の山車が方向を変えられず、なんだか立ち往生しているようにも見えます。


大丈夫なのかしら・・・
山車には、お囃子方の子供が10人あまり乗っています。
しかし、望遠で抜いてみても、子供たちは まったく不安そうな表情はしていません。
ふと、私はお父さんの肩車を想い出しました。
世界中の誰よりも信頼できて、自分を守ってくれる人・・・
そうです、山車を押し、引っ張っていてくれるのは、彼らのお父さんたち。
少しも心配などすることなどないのですね。
彼らも、やがて父になり、我が子を山車に乗せ、海を渡る日が来るでしょう。


こうやって、伝統は未来に繋がっていく。
ひとり感慨にふけりながら、この日もホロっとしてしまった私なのであります('◇')ゞ

やがて4台の山車は、次々と海中渡御を終え、若宮神社への道を戻っていきました。
いやぁ~、素晴らしかったなぁ~
またひとつ、私の記憶に残る素晴らしい祭りに出会うことができました。
いつかまた、晴天の空の下で金色に輝く美しい山車の海中渡御を見にくるぞ!

祭りは、時空を超えたタイムカプセル。
少しずつ形を変えたとしても、この祭りを見守り続けた人々の思いは変わりません。
天候は上々とはなりませんでしたが、気分は上々。
この日も、祭りにあふれるたくさんの笑顔に出逢えて、とっても幸せな一日でした(*´▽`*)
尚、三谷祭りは、10月の第4土曜・日曜の2日間行われますが、海中渡御は日曜日となります。
肌寒さも感じる季節に、寒さも厭わず海へ入って行く勇壮な男たちと豪華な山車がご覧になりたい方は、是非行ってみてくださいね。
観光協会の回し者ではありませんが、温泉と海の幸も待ってますよ。

今日も脱線尽くめの長文にお付き合い下さり、ありがとうございました。
また、次のお祭りでお会いしましょう(^^)/





2014年9月19日金曜日

いにしえの廻船船主の心意気   -内海 神楽船祭り-



西端区 神楽船

こんにちは。
長の無沙汰をお許しくださいませ<(_ _)>

今年の夏は予想もしない異常気象が続き、各地に暴風雨による被害をもたらしましたが、皆様におかれましては、お変わりなく元気でお過ごしでしたでしょうか?
また、甚大な土砂災害に遭われた広島地方の皆様には、心よりお見舞い申し上げるとともに一日も早い復興をお祈りいたします。





内海海水浴場

さて、本日は、初秋の知多半島を彩る内海神楽船祭り(うつみかぐらぶねまつり)をご紹介いたします。

内海海岸(正式には千鳥ヶ浜海水浴場というそうです)といえば、この地方のマリンリゾートのメッカであり、関東でいうと江の島海岸のようなところで、真夏には多くの海水浴客で賑わいます。
シーズンが終わったこの日も、夏の陽射しが少し残る海岸には、往く夏を惜しむかのように若者や家族連れが集っていましたよ。

社務所で身支度をする若衆

ゆるやなか弓形を描く海岸線には美しい砂浜が広がり、後方にはホテルや料理旅館が立ち並んでいます。
その長い砂浜の南端あたり、リゾートマンション脇の細い坂道を上っていくと、本日の祭礼が行われる西端区の氏神様である山神社があります。
海辺の小高い丘の上にある山神社に祀られているのは、その名のとおり、山の神様である大山祇神(おおやまづみのかみ)。
あれれ? 神楽船祭りは海の祭り、海の神様ではないのは、ちょいと不思議ではありませんか?

そこで、ちょちょっとググってみたところ、大山祇神社の総本山は瀬戸内海の大三島にあり、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した村上水軍ゆかりの神社でもありました。
な~るほど、水軍の守護神とあらば、海の祭りに相応しい神様ですよね。


尾州廻船船主 内田佐七邸 南庭園

ところで、私は海の祭りとは書きましたが、内海神楽船祭りは、正確にいうと海で行われる祭りではありません。
内海川という小さな川の河口付近で行われるお祭りなのでありますが、あえて海の祭りと書いたのには訳があります。
なぜなら、このお祭りは、太平洋の荒波を枕に海運業で活躍した勇壮な男たちのお祭りだからです。
そのキーワードは、尾州廻船
では、お祭りのお話に入る前に尾州廻船について探っていきましょう。


尾州廻船の主な寄港地

そもそも、内海神楽船祭りとは江戸時代後期、太平洋沿岸の物流を担った尾州廻船 内海船の海運業盛大、航海安全を祈るために始まったお祭りです。
しかし、かつてこの地が尾州廻船という海運業の中心地であり、大きな富と繁栄をもたらした町であったことは、あまり知られていません。現在の内海海岸には、穏やかな砂浜が残るばかり。



内田佐七邸
大きな港もなく、海辺を散策しても往時の面影を見つけ出すことはできません。
しかし、海辺から離れて狭い路地を歩いてみると、そこには往時の繁栄が見てとる建物が、いくつか点在していました。

祭りを知りたいなら、まずはその町を知るべし!

この日私は、内海の町に到着すると取りあえず南知多町教育委員会が管理する文化財尾州廻船船主 内田佐七邸見学に直行しました。


北庭園の露台と竹連子壁

神楽船祭りの成り立ちを知るには、まずは尾州廻船を学ばなければならないと思ったからです。
当時の船主の暮らしを知ることは、その時代背景を知るうえで大きなヒントになるわけです。

黒板壁に囲まれた内田佐七邸は、明治2年に建てられた屋敷で、海運業の繁栄も末期の時代にあたりますが、その風格は私の想像を遥かに凌ぐ建物でありました。



日暮れを静かに待つ神楽船
門を入ると大きな広場があり、その向こう右手に蔵、左手前が主屋の入り口となっていました。
主屋の入口からは、奥にのびる広い土間になっていて、おそらく航海から戻った水夫たちの作業場でもあったことが窺えます。
しかし、凄いのは実用的な広さばかりではなく、その瀟洒な造りなのであります。
主屋が、どちらかというと実用的な造りであるのに比べ、その主屋の東側にある座敷は、北と南に優美な庭園を備えた格式ある二間続きの大広間となっています。
案内パンフレットによると、戎講(この地方では船主の組合のことを指します)の寄り合いなどに使用された広間とありますが、おそらく冠婚葬祭や賓客のもてなしにも使われたことでしょう。



櫓の後方には、美しい旗や幟が飾られます

そして主屋の奥には、別棟の二階建の隠居所、そのほかにも蔵や納戸などの建物もいくつか並びます。
そんな立派な屋敷の中でも特筆すべきは、やはり石や樹木、灯篭などが美しく配された庭園(坪庭なんてものじゃなく、かなり広いです)と格式高く、凝った造りの座敷です。
床の間、付書院、床脇飾り、また欄間などの装飾はシンプルですが、なんと!座敷の天井板は屋久杉で出来ているそうですよ。
う~ん、海運業は、かなりの財を得ることが出来たようですね。



本日のイケメンさん(^_-)-☆
内田佐七邸の隠居所には、当時の道具や資料、そして尾州廻船の模型などが展示されており、私も尾州廻船とはなんぞや?ということを学ぶことが出来ましたよ。

まあ、とってつけの知識ではありますが、お勉強してきたので少々お耳拝借。
尾州廻船 内海船とは、江戸時代後期に活躍した戎講という組合組織を持つ海運業者の総称で、最盛期には、内海とその周辺の船を加えると100嫂もの船が戎講に所属していたそうです。


手渡しされていく提灯

航海範囲は、東は江戸から西は瀬戸内海は尾道あたりまで。
主な積荷は「米」で、米船とも呼ばれていたそうです。
まずは米を積んで出掛け、あちこちの港で卸して運搬費用を稼ぎ、次はその儲けで寄港した港に集まる積荷を買い入れる。
そしてまた、その買い入れた品物を次の寄港地で売りさばきながら戻る訳です。
あちこちの寄港地で仕入れ・売却を繰り返し、いつも積荷は満杯なのですから、実に効率のよい儲け方ですよね。



提灯が取り付けられていきます
しかし、そこにはニーズに応えて確かな物を仕入れて売るという商売センスも必要であったと思うのです。
勇敢な海の男というだけでは、商売は出来ません。
上方の大商人や江戸の商人を相手にするには、知識や経験だけでなく、船主には広い視野で時代を見定める能力が最も必要であったことでしょう。
やがて、明治期になって蒸気船や鉄道の発達により尾州廻船は衰退していきますが、そんな中でも蓄えた財力で実業家に転身していった船主も大勢いたそうです。

さて、尾州廻船の成り立ちが分かったので、夕刻迫る祭りの現場に向かいましょう。
西端区の氏神様山神社から、海辺とは反対方向に狭い路地を下っていくと内海川河口に行きつきます。
そこには、本日のメインイベントである神楽船が組まれていました。


提灯の飾りつけも終盤

神楽船は、二艘の祭り舟を横に並べて連結し、その上に櫓(やぐら)を組んだもので、船の全長は約12m、組まれた櫓の広さは約四畳半といった感じです。
櫓の中央には、提灯を掲げるための長い柱がそびえ立っています。
その高さは約15m、ここに108個の提灯が掲げられるのですね。
なんだかワクワクしてきましたよ。
美しく飾られた神楽船は、夕闇迫る岸辺で静かにその時を待っているようです。


船出の準備も整い、船方さんも登場

神楽船を眺めながら、私も堤防に腰をおろしてしばしブレイクタイム。

陽は傾き、岸辺の家々に灯りが灯るころ、
三々五々集まっていらっしゃった地元のお年寄りに祭りの思い出話などを聞かせていただくことが出来たのは、非常に有意義な時間でしたよ。

そうこうしていると、やがて提灯に灯をいれる時刻が近づいてきたようです。
提灯柱の一番上に2個の大提灯が掲げられると、いよいよ神楽船祭りの開始です。



優美で勇壮な神楽船

まずは、お囃子道具と囃子方が船に乗り込み、お囃子の準備が始まります。
そして、提灯方が乗り込むと、囃子方の木遣り音頭にあわせて提灯がひとつずつ取り付けられていきます。
提灯の火は詰所で灯され、西端区の人々ひとりひとりの手渡しで、神楽船までリレーされていきます。

なんと素敵な光景でしょう!

船ばかりが主役ではなく、地区の老若男女、すべての人が参加してこその祭り!

このような小さな地区でのお祭りでは、地区の全員で盛り上げていくことが大きな意義を持ちます。
世代が変わり、住民が変わっていっても、参加することによって、伝統を守っていけるだと私は思うのです。

提灯の飾りつけも終わり、とっぷりと日が暮れると、いよいよ神楽船の出航です。



気合いの入った船方さん
「よーそろ」と、威勢のよい船方さんの掛け声が響き渡ります。
岸辺からは歓声と拍手が起こり、褌姿も凛々しい船方さんの気合も十分。

岸辺を離れた神楽船は、ゆっくりと内海橋と千歳橋の間を往復します。
その距離といえば、およそ500mしかありませんが、ゆっくりとゆっくりと進む神楽船の姿は典雅そのもの。
どことなく哀愁が漂う笛太鼓のお囃子も、夢心地に誘います。
私も、しばしカメラを持つ手を休めて、美しい伝統の祭りに酔いしれます。


提灯の灯が水面を幻想的に照らします

江戸の昔、海運業盛大・航海安全を願って裕福な船主によって始められた内海神楽船祭りは、時を経て地域の人々の強い結束と互いの幸せを願う祭りになっていました。

ゆらゆらと光の尾をひいて川面をゆく神楽船
その昔、千石船を駆って荒海に漕ぎ出していった勇壮な男たちとそれを見送った町衆。
そんなドラマのひとコマが垣間見れたような気がしたのは、私だけかしら・・・
大きな富と繁栄をもたらした時代は静かに幕を閉じたけれど、海の男の心意気は今も昔も変わらないのです。

この日も、川面に映し出される光のページェントにすっかり魅了された私の一日。
やっぱり祭りは、私に元気と活力を分けてくれます。
さあ、秋祭りの季節の開幕です!
今年は、いくつお伝えすることができるかな。
皆さんもぜひ、ご近所の秋祭り見物に出掛けてみてはいかがですか?



おまけ   内海海岸からの夕景

内海神楽船祭りの行われるのは、旧暦の8月17日に近い土曜日で、潮の関係上(干潮では船が漕ぎ出せないそうです)今年は、9月13日に行われました。
機会があれば、来年行ってみてくださいね。

内田佐七邸については→http://www.tac-net.ne.jp/~mannai/uchidake_02.html

本日も最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
ではまた、次のお祭りでお会いしましょう(^^)/





2013年10月14日月曜日

川面を照らす篝火に悠久の時を偲ぶ    -犬山市 木曽川うかい-


木曽川うかい

こんにちは。
またまた長い間のご無沙汰でございます<(_ _)>
はや10月も中盤となり、今頃なんのこっちゃでございますが、今回は夏の風物詩「木曽川うかい」を紹介させていただきます。
言い訳っぽいですが、今年の夏はかつてないほどの酷暑。
暑さに負けてモタモタゴロゴロしている間に9月が過ぎ、あっという間に10月を迎えてしまいました。
どうぞお許しくださりませ。


屋形船からの見物

更に言い訳が重なりますが、今日ご紹介する「木曽川うかい」は6月から始まり10月まで続くという長丁場、その間に書ければいいかなどと甘く考えていたのワタクシなのですが、気がつけばとうとう今年の鵜飼も10月15日にて終わりとなってしまいました。
いやはや、本当に申し訳ないことです。
と言っても私が勝手に書いているだけで、別に犬山市や鵜飼運営会社からの回し者でもないので関係ないのですが・・・(~_~;)


鵜匠さんと鵜

さて、今回ご紹介するのは、いつものお祭りではなく、季節の風物詩、伝統の「木曽川うかい」とその周辺の見どころです。
皆さんは、鵜飼漁というものを見たことはありますか?
聞いたことはあっても、実際にこの伝統漁法が残っている地域は限られていて、実際に見ることのできる機会はそんなにありませんよね。
そういう私も、今日ご紹介する犬山市の近隣に住んでいながら「いつかは観たい」と思いつつ、観る機会を持ちませんでした。
友人とも「いつか観にいきたいよね」などと話題にはのぼるものの、なまじ近いせいもあって、なかなか観に行こうともしなかったというのが正直なところです。
しかし、こんなことではいつまでたっても観られそうもありません。
そこで、思い立ったが吉日とばかりに、観覧船を運営する会社に電話で問い合わせてみると、今日は空きがあるとのこと。(木曽川うかいは、基本的に当日予約では観ることができませんが、お弁当付きのコースでなければ、空きがあればOKだそうです)
せっかくの鵜飼見物、ひとりではつまらないので強引に友人を誘って出かけることにしました。




国宝茶室「如庵」

そうと決まったら、鵜飼いの始まる時刻まで待てないせっかちな私です。
犬山に行くのであったら、以前から観たかった織田信長の実弟で茶人であった織田有楽斎(おだうらくさい)が建てた国宝茶室「如庵」を観に行こうと友人を急き立てて、午後3時に犬山に到着しました。
鵜飼い観覧の屋形船の出発時刻は午後6時50分です。
充分な時間があるので、車を乗船場の駐車場に置いて、茶室「如庵」のある有楽苑まで歩くことにしました。





苔の美しい有楽苑庭園
乗船場から有楽苑までの距離は約1㎞。
そんなに離れた距離ではないのですが、通り雨の後の犬山は猛烈な蒸し暑さ。
暑いだのなんだのとグダグダと文句並べる友人を無理やりひっぱって歩くこと20分で到着した有楽苑は、木曽川河畔に建つ名鉄犬山ホテルの敷地内にありました。
こんもりとした木々に囲まれ、ひっそりとした佇まいの庭園有楽苑は、さほど広い庭園ではありませんが、四季折々を楽しめるであろう日本古来の植物に彩られた苔の美しい日本庭園でした。

お行儀が悪いけれど、内部ちょっと覗き見

順路に従ってゆっくりと散策してゆくと、サルスベリやヤブランといった季節の花々が迎えてくれます。
枝先に小さな花を咲かせ始めた萩が風情ある表情を見せてくれたりもしましたよ。
そして、庭園のほぼ中央に国宝茶室「如庵」があります。
外からみた限りでは、そんなに侘びた佇まいでもなく、狭苦しい感じでもないことに、ちょっと驚きでしたが、小窓から覗くと中は、やはり狭いようです。



雨上がりの露に濡れた白萩の花
多くの茶室を見てきた訳ではないので、よくは分かりませんが、庵(いおり)と呼ぶには少し綺麗過ぎるような気もします。
庵と聞くと、利休の愛した“わびさび”の世界を連想しちゃうからでしょうね。
「如庵」には、武家の隠居所といった風情が感じられました。

元和4年(1618年)に建てられというこの茶室は、織田有楽斎が京都市の建仁寺の正伝院に建てた茶室を移築したものですが、京都から直接移築された訳ではなく、明治期から運命に流されるように主を変え、移築を繰り返しながら昭和47年、ここ犬山の地に来ました。


茶室に隣接する重要文化財 旧正伝院書院

織田有楽斎という人物の人となりに興味はあっても、茶室については詳しくないので、案内パンフレットから紹介させていただくと、その造りは、単層杮(こけら)葺き入母屋造り、内部は二畳半台目の向切りの茶室とのことです。
“入母屋造り杮葺き” までは分かりますが “二畳半台目の向切り” とは、なんのこっちゃわかりませんのでお許しくだされ<(_ _)>
また、壁の腰部分には当時の和紙に描かれた暦が張られていて、別名暦の席といわれているそうですよ。
これは、小窓からしっかり覗いてきたので、フムフム納得(o^-')b



木曽川夕景
「如庵(じょあん)」の名の由来は、織田有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」からきているといわれますが、という文字は、仏教的には教えに従うというような意味があります。
~の如く(ナントカのごとく)と使われるように、自然にあるいは時流に逆らうことなく身を任そうという意味もあるのではないでしょうかね。
有楽斎の生き様を追ってみると、そんな考えに至りました。
豪放な織田信長の弟として生まれ、後に家臣に等しかった豊臣秀吉に仕え、秀吉と徳川家康の間を行き来して、戦乱の世を生き抜いた織田有楽斎。



有楽苑に咲くサルスベリの花
決して悪い意味じゃないけれど、如才ない人物とは彼のような人のことを指すのじゃないでしょうか?
戦国史をひもとけば、日和見主義な卑怯者の扱いを受けてもいるようですが、それが生き残る術であった時代においては、“賢い” 選択であったのでしょう。
そんな時代背景の中で、数寄者(すきもの)として茶の湯を極め、ちゃんと長生きもして後世にその名を残す訳ですから冷静沈着な人であったと想像できますね。
千利休の門弟でありながら、猿真似に終始した大名の茶の湯とは一線を画すところも、やっぱり並みの人物ではないように思えます。



国宝 犬山城

この茶室「如庵」にしても、まるで有楽斎の生き様が乗り移ったかのような変遷に耐えて、今日に至る訳ですから、なにかそこに壮大なロマンを感じるのは私だけでしょうか?
国宝茶室「如庵」は、月1回だけ内部を特別に公開しています。
往復ハガキでの申し込みなので、ご覧になりたい方は前もって準備が必要ですね。
ちなみに特別公開の見学料金は2,300円だそうです。(普段は入場料1,000円、お抹茶500円)


屋形船から見上げる犬山城

拝観についての情報はこちら↓
http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/joan/special.php
私のように思いつきで行っちゃった方は、小窓から中を覗き込みましょう、いつも開いているとは限りませんが・・・(@ ̄ρ ̄@)
そして犬山市の最大の見どころと言えば、なんといっても国宝犬山城です。
今回は時間の都合もあり、見学することも出来なかったので割愛させていただきますが、城下町の街並みも美しく、とても活気ある良いところですよ。



屋形船から眺める木曽川夕景
犬山祭りに関しては、以前に紹介させて頂きましたが、またいつの日かお城と美しい城下町についてもご紹介できたらと思っています。

さて、この辺で鵜飼見物屋形船に乗船することにしましょう。

私が訪れた8月の後半は、まだ日が長く乗船時刻の6時50分といえば、ちょうど陽が落ちた直後あたりでした。
夕暮れの時刻から、宵の街灯りが灯る頃にゆっくりと漕ぎ出す屋形船。
それはもう筆舌には表せない美しい光景が広がります。



イケメンな鵜匠さん

河畔から見る光景とはひと味違う、川面から見上げる犬山城の雄々しさは格別です。
川面に映る街灯り、橋を行きかう車さえも日頃の喧騒を感じさせません。
舟遊びとは、こんなにも典雅なものかとしみじみとひとり悦に入る私・・・
しかし、悦に入ってばかりもいられないのがカメラマニアの性(さが)でして ( ̄◇ ̄;)


巧みに鵜を操る鵜匠さん

なんとかいい写真が撮れないものかと右を見たり左をみたり、刻々と変わる明度に四苦八苦、とても優雅とは程遠い姿での舟遊びになってしまったことは言うに及ばないでしょう(>_<)
あっ!誰か屋形船の中で、へっぴり腰で撮影している私を想像したでしょう(~_~;)

では、この辺で「木曽川うかい」の歴史と伝統をご紹介しましょう。
この地方で一番有名な鵜飼と云えば、岐阜市の「長良川鵜飼」ですが、実は「木曽川うかい」だって歴史的には負けていません。


船着き場に居たウミウ

しかし、岐阜市の長良川鵜飼の場合は6人の鵜匠が宮内庁式部職に所属、その技は親から子へ代々受け継がれていく世襲制であり、存続の心配もない国家公務員の方々。
また、宮内庁に献上するための「御料鵜飼」も年8回行われ、木曽川うかいの鵜匠さんとは違い、長良川鵜飼の鵜匠さんのほとんどは専業だそうす。
木曽川うかいの鵜匠さんは、犬山市の観光課の職員さんで地方公務員の方々。
まあ、仕方のないことですが、という点では、まさしく“別格”とされている長良川鵜飼ほどの知名度はありません。
だからと言って「木曽川うかい」が劣っている訳じゃ、決してありませんよ!
古式ゆかしい装束に身を包んだ凛々しい鵜匠さんの姿も、鵜を操る手綱さばきも、340余年の伝統を誇る素晴らしいものです。


「なか乗り」さんと「とも乗り」さん

犬山うかいの歴史は、今から約340年前に犬山城三代目城主“成瀬正親公”が御料鵜飼として始められ、鵜匠を保護したことから始まると言われています。
蛇足ですが、国宝犬山城もつい最近までは、成瀬家の個人所有のお城でしたよ(o^-')b
あわわ、また話が逸れそうなので基!
そもそも、鵜飼い漁法の歴史は古く、日本書紀にも記されている伝統の漁法です。


篝火ひとつの灯りののもとで行われる鵜飼漁

この地方の最も古い資料によると、大宝2年(702年)の各務郡中里の戸籍に「鵜養部目都良売(うかいべめづらめ)」との記述があるそうで、少なくても1300年もの長きにわたり受け継がれてきた伝統漁であったことが読み取れます。
一時は衰退したものの、明治時代になると木曽川での鵜飼い漁を復興しようという運動が始まります。
明治32年(1899年)に鵜飼鎌次郎の尽力でその伝統漁が復活、そして明治42年には観光を目的として行われるようになりました。


大活躍のウミウ

またまた蛇足ですが、愛知・岐阜の辺りには鵜飼さんという苗字の方が多いです。
それひとつをとっても、鵜飼いの歴史を感じられますよね(o^-')b

では、次は鵜飼いについてのみどころを少々。
鵜飼い漁は、すっかり陽が沈み暗くなった時刻に始まります。

(犬山では昼鵜飼いもやっていますが、やっぱり夜がお勧めです)


何本もの手縄を操る鵜匠さん

鵜舟の全長は13m、舟には鵜匠の他、舵取り役や船漕ぎ役の「なか乗り」「とも乗り」と呼ばれる人が同乗し、3人ひと組で漁を行います。
鵜を操るのは鵜匠ひとりですが、「とも乗り」や「なか乗り」の人も鮎を飲みこんだ鵜から鮎を取り出したりして漁のお手伝いをします。
なんといっても鵜飼い漁の見どころは、舟の先端に取り付けられた篝火。
暗闇の中、煌々と燃えさかる篝火に照らされて川面に浮かび上がる鵜舟、古式ゆかしい装束の鵜匠さんの素晴らしい手綱さばき。



ウミウの口から鮎を取り出します

次々と水の中に潜っては浮き出てくる海鵜(ウミウ)の姿も健気です。
一部の外国の方には鵜飼い漁が理解出来ず、動物虐待のように映るようですが、決してそんなことはありません。
通常の海鵜の寿命は4~5年だそうですが、鵜匠さんによって大事に育てられた鵜飼いの鵜は、10~20年も生きるのだそうです。
人と鵜が寝食を共にして生まれる絆なのですねd('-^o)
鵜飼漁で活躍する鵜の数は8羽・10羽・12羽と日によって違うそうですが、偶数に限られているそうです。
また、鵜匠さんの衣装は、風折烏帽子(かざおれえぼし)・木綿の漁服(りょうふく)に胸当て胴着・腰蓑(こしみの)姿、ちなみに腰蓑の藁紐の数は365本だそうです。
一年365日、毎日漁が出来ますようにという意味だそうですよ。



鵜匠さんは鵜と仲良しなのですね(^▽^)

かの俳人、松尾芭蕉の句に おもろうて やがて悲しき 鵜舟かな いう名句があります。
意味合い的には、獲った鮎を食べることが出来ない鵜が可哀想だな といった感じではありますが、私が見たこの日も、最後には鵜匠さんが頑張った鵜を労り、ご褒美の鮎をあげていました。

今年の鵜飼いも、もう終わりの季節にはなってしまいましたが、屋形船に揺られての鵜飼い見物は、340余年の時空を越えて鵜飼い見物を愛でた“殿様”気分にしてくれますよ。

私もまた、美しい日本の伝統文化に出会うことができ、楽しい一日でした。
皆さんも機会があれば、是非いつの日か見学されてはいかがですか?
今年は、美しい女性の鵜匠さんもデビューされたそうですよ(^_-)-☆

では、今日はこの辺で失礼いたします。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
また次のお祭りでお会いしましょう(^.^)/~~~

追伸:木曽川うかいのホームページはこちら↓
http://www.kisogawa-kankou.com